「外国人嫌悪」は「現代病」なのだろうか | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

ネットで見かけるニュースに、時として〝ハッ〟とさせられることがある。今日も、「ゼノフォビア(xenophobia)」という言葉に関わるニュースを見掛けてドキッとした。

 

「ゼノフォビア」とは、「外国人嫌悪」「外国人恐怖症」を意味する言葉だと説明されていた。その記事は、かなり長い記事だったので、要点を書き留めておこうと思う。

 

記事は、「『日本に来ないで』 ネットにあふれる外国人観光客への罵倒! 〝観光立国〟なんて実はタテマエ? 『外国人嫌悪』という現代病から考える」と題されていた。

 

 

(京都・嵐山の観光スポット「竹林の小径」にて)

 

記事を書いたのはルポライターの「昼間たかし」さんという方。出だしは、「長崎県対馬市の和多都美(わたづみ)神社は、韓国人観光客の『出入り禁止』を発表」で始まっていた。

 

穏やかではない始まり方である。「理由は、一部の観光客が神社境内でのタバコのポイ捨てなど迷惑行為を行っていたため」だということだった。

 

そこで「有識者の間」では、「ゼノフォビア」が懸念されているというのだ。繰り返すが、「外国人嫌悪」「外国人恐怖症」という意味だ。

 

かつて私たちは、「〝爆買い〟をする中国人観光客に対して嫌悪感」を感じたが、今はその見方が、「インバウンド全般に向けられるように」なったというのだ。

 

コロナ禍が終わり、「インバウンド需要は急増しているが、その恩恵は極めて限定的」だという。理由は「人手不足や人材不足」、「多言語インフラの整備が不十分」などが挙げられる。

 

だから、「コミュニケーションが難しいことが原因で、さまざまな摩擦や誤解が生じている可能性」があり、「〝文化の架け橋〟となる人材も必要とされている」と言われる。

 

ある調査では、「観光による恩恵を直接的に実感できる地域ほど、インバウンドに好意的な傾向がある」から、「異文化受容においては『利益』が重要である」とも書かれていた。

 

(京都では外国人の和服姿での観光がすっかり定番に)

 

逆に言えば、「観光に依存していない地域」では、「顕著な拒否感」が見られ、これは「未知のものに対する本質的な恐怖心を反映」していると考えられるそうだ。

 

例えば私が暮らす京都は、外国人観光客による「トラブルがたびたび話題」になるが、「実際に誰が、どのように迷惑を感じているのか」に関する調査研究は限られているという。

 

 

(インバウンドの「歩き食べ」スタイルがごみ散乱で問題になっている)

 

そこで、「オーバーツーリズム(観光公害)に端を発するゼノフォビアを解決する」ために、「定量的かつ客観的な調査」が行われ、「その結果が共有されることが重要」なのだ。

 

そもそも「ゼノフォビアは、人類の歴史を通じて普遍的に存在してきた人間の本能的な反応のひとつ」らしい。これは、なんとなくわかる気がする。

 

現状では、「経済格差;日本人の自尊心を傷つけている」、「文化的圧力;価値観が押し付けられているという反発」などが、「外国人の存在と結びついて」生じているというのだ。

 

フランスの総選挙で、第1回投票では「極右勢力」が第1党になったようで、この勢力は外国人の移民排斥を掲げている。この流れは、EU議会選挙でも同様の動きになっている。

 

つまり「世界的な反グローバリズムの潮流の一部で、ゼノフォビアの流れが政治的な力になっている」という現状がある、と記事に書かれていた。

 

その根底には、「グローバル化そのものへの疑問や反発」があり、「外国人に対して少なからずネガティブな感情を抱いている」ということらしい。

 

要は、日本に限らず、世界の大きな潮流として、「ゼノフォビアの問題は、私たちの社会のあり方を問うている」ということだと、記事は締めくくられていた。

 

 

 

記事のタイトルにある「ネットにあふれる外国人観光客への罵倒! 〝観光立国〟なんて実はタテマエ?」とはなんとも怖い話だけれど、これが心の底にある本音なのだろうか。

 

かつて私たちは海外へ出掛けて行き、案内員が持つ旗の下で行動する異様な集団と評価され、非難を浴びた時期があった。そして昨今は、円安で海外へ行くこともままならない。

 

その一方で、急増しているインバウンドは、この国を〝我が物顔〟でのし歩き、〝コンビニ越しの富士山〟を写真に収めるために交通妨害をいとわないと、私たちは怒っている。

 

今日の記事の筆者の昼間さんがおっしゃる通り、「ゼノフォビアの問題は、私たちの社会のあり方を問う」テーマとなっていることは、まず間違いがないことだと思った。