地味めの講演もシルバーパワーが席巻し | がいちのぶろぐ

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今週はあれこれと予定が入っていて、毎日どこかへ出歩くという週になっている。

 

昨日は、この間作成をお願いしていた新しい入れ歯が出来上がったので、それを受け取りというか、はめてみた上で調節をしてもらうために、歯医者さんに出掛けていた。

 

ほぼ〝総入れ歯〟に近い上の入れ歯に比べて、数本の歯が残る下の入れ歯は、調整をしてもなお何となく痛みを感じている。特に、はめたり外したりに痛みがひどい。

 

しばらくは、我慢をしながら様子を見て、10日ほど経ったところで、再度微調整をお願いする、という段取りになった。だから今日現在は、試運転中になっている。

 

ただ昨日は初日とあって、やはりなお「異物感」が強く、その分だけ何となく頭痛がしているような、していないような気分で、ちょっと元気が出なかった。

 

〝まずは我慢、我慢〟と自分に言い聞かせて、馴れるまでの10日間ほどを過ごそうと努力している。それでも右下の奥の方が痛くて、しばらくは右側で堅いものが噛めそうにない。

 

そんな状態だけど、今日は午後1時半から、植物園の東側にある「京都府立京都学・歴彩館」で講演会があったので、講演を聞きに出掛けていた。

 

出掛ける時点はかなり強い雨が降っていたし、いくら入場無料の講演会でも、そんなに注目を集めるテーマでもなかったから、満席にはならないだろうと思っていた。

 

なにしろ、この会館の大ホールは収容定員が500人と、そこそこのキャパシティもあるから、安心して出掛けたのだが、これがどうしてなかなかの賑わいだった。

 

平日だけど、事前申込みも不要だし、無料の講演会だからだろうか。私は1時開場のすぐ後くらいに着いたけれど、もう良さそうな席はだいたい埋まり始めていた。

 

 

 

そして、講演開始の1時30分が近付くにつれて入場者が増え、前方の両端という見にくそうな場所を除いて、ほぼ満席状態になって来た。

 

先ほど〝注目を集めるテーマでもなかった〟と書いたけれど、「京都を学ぶセミナー【丹後編】日本海三大古墳が丹後に築かれた意味」というタイトルの講演会だった。

 

三大古墳は、京都府の北部、京丹後市網野町の網野銚子山古墳(201m)、京丹後市竹野町の丹後神明山古墳(190m)、それに与謝郡与謝野町にある蛭子山古墳(145m)の三つである。

 

もちろん、それらが単独でポツンとあるわけではなく、周りに陪塚というか小さめの古墳を従えた大型の前方後円墳で、4世紀後半から5世紀初頭に造られたとみられている。

 

 

 

堺市などにある世界遺産の百舌鳥・古市古墳群(あの仁徳天皇陵など)に先立って、それと匹敵するくらいの規模の古墳が、京都府の最北端・丹後半島の辺りに造られていた。

 

誰かの〝決めゼリフ〟ではないが、「それって凄くないですか」と言いたくなってしまう。

 

それも、網野銚子山古墳と丹後神明山古墳は、日本海に面した河口部のかつては潟湖だった場所に立地している。

 

4世紀後半ごろに、大陸や朝鮮半島からやって来る舟が、この列島に到着する位置というのがこの丹後半島であり、ヤマト政権の窓口となる場所だったのではないか、というのだ。

 

ヤマト北部地域から木津川を経て京都盆地に至り、桂川の上流から山越えし、日本海側へ流れる由良川へ入り、そのまま日本海へ達するルートがあったのではないか、ということだ。

 

中国の黄河流域(中原地域)の国の興亡による情勢変化や、朝鮮半島の国々の成長があり、ヤマト政権としても丹後の豪族(王国?)と手を結んでいたのでは、という話になる。

 

つまり、この国もヤマト政権が確立して行く過程であり、漢帝国の滅亡後の東アジア全体がちょうど混沌とした情勢にあった時代、ということになる。

 

その時代に、この国ではヤマト政権の強大化が進行するとともに、丹後という地域の重要性が浮かび上がって来た。つまり大陸や朝鮮半島に対して「威容」を示す必要があった。

 

だからこそ、〝仁徳天皇陵〟などに先駆けて、丹後という対外的な窓口である地域に、大型の構造物を誇示する必要があったのではないか、という仮説なのだ。

 

それから1世紀ほど後になれば、東アジア情勢が落ち着いてきて、この国も「倭の五王」の時代になり、難波江が大陸や朝鮮半島との窓口となって行く。

 

その結果、百舌鳥・古市古墳群が、丹後のそれを上回るほどの規模で構築されてゆく。その過渡期に当たって、丹後に通行路の〝結節点〟と言う役割が生じていた。

 

これが大型の前方後円墳が、早期に丹後に築かれた意味ではなかったか、というのが、今日の花園大学の考古学の高橋克壽先生のお話だった。

 

なかなか楽しい1時間半の講演だった。それにしても、シルバー・パワー恐るべし。こんな比較的地味(?)な講演でも、雨の中を500人が集まるのだから。