「おんなの史跡を歩く」という本 | がいちのぶろぐ

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今日は一日、〝降る降る〟詐欺の日になった気がする。スマホの天気予報でも、パソコンの予報でも、〝これから降る〟とか〝雨が降っている〟という表示が続いていた。

 

それで結局は、出掛けるのをあきらめたのだけど、いつまで経っても雨が降らなかった。それどころか、午前中は徐々に空の色が明るくなって行ったりもした。

 

でも、もうその時点では出かける気をなくしていたから、午前中も午後も、私はずっとお勉強をする日になっていた。

 

でも、お勉強ですかねぇ。私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体の、作業もやらないといけないのだが、〝今日は日曜だし〟と勝手に作業をパスしただけだとも。

 

というような次第で、〝お勉強デー〟として、「京都・観光文化検定(京都検定)」の1級受験に多少は役に立つだろうと、先日、府立図書館から借りてきた本を精読していた。

 

その本のタイトルは、「おんなの史跡を歩く」(京都新聞社・編、2000年)。凄いタイトルだと思う。「おんなの史跡」ってどうよ、という気がする。

 

 

 

対象は、「間人(はしひと)皇后」から始まっている。用明天皇の妻で、聖徳太子(厩戸皇子)の母に当たる人。この人が、戦禍を避けて逃れていた地が、今の「間人(たいざ)」。

 

この戦禍は、大和での蘇我氏と物部氏の対立。仏教を認める蘇我氏と、廃仏派の物部氏が争っていた。身の危険を感じて、間人皇后は丹後のにあった自分の領地へ避難した。

 

その対立が一段落したから、大和へ帰ることになった間人皇后は、世話になったお礼に、自分の名前をこの土地の名前にするように与えた。

 

この地の人たちは、そのまま地名とするのは恐れ多いと、読み名を変えた。〝間人〟と書いて「たいざ」と読むように。皇后がこの地から〝退座〟されたから、ということらしい。

 

だから日本の地名の中でも難読漢字の一つである、「間人=たいざ」という地名が出来上がった。〝これってどうよ、無理あり過ぎよねぇ〟というお話。

 

その皇后から始まって、明治時代の〝新島八重〟さんなどに至るまで、73人もの京都とゆかりの深い女性の、人生と周辺の出来事が書かれた本になっている。

 

(新島襄と八重が暮らした旧邸)

 

 

もちろん、ここに掲載されている女性の大半は、私もこれまでに何らかの形で、どういう人物かを知ることが出来たり、何かで読んだことがあるような人たちである。

 

それでも、中にはそこまで深くは知らなかった女性もいれば、さらに言えば、今まで聞いたこともなかった、という女性のことも書かれている。

 

そして、本のタイトルにも示されているように、「おんなの史跡を歩く」のだから、新聞記者がその女性にゆかりの場所を訪ねたレポートにもなっている。

 

今年の話題ということでは、紫式部は大津市の石山寺を訪ねている。また徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の元へ嫁いだ千姫は、大坂の陣の原因となった「方広寺」の鐘を訪ねている。

 

 

(方広寺の「国家安康」と刻まれた大釣鐘)

 

このように有名な女性も、数多く描かれているが、中には、私がこれまで全く知らなかった女性のことも、取り上げられている。

 

例えば、「乙前」という女性。「梁塵秘抄」という今様集を残した後白河法皇は、院政を敷き平清盛や源頼朝とも渡り合った人物として、日本史の教科書には必ず名前が載っている。

 

ところがこの「乙前」というのは、その後白河法皇に今様を伝授した師匠に当たる、という説明なのだ。この女性のことは、この本を読むまで一切知らなかった。

 

史跡としては、後白河法皇が院の御所としていた「法住寺殿」の跡にある、法住寺という寺を訪ねている。現在の法住寺は、後白河法皇陵の前に御陵を守るように存在している。

 

 

(後白河天皇法住寺陵)

 

このように、歴史の中でも決して有名ではない女性も含めて取り上げ、その女性について解説し、さらにゆかりの場所を訪問するという本になっている。

 

ということで、この本を借りたのも、図書館の「京都コーナー」で、何か良さそうな本はないかと物色して、偶然見つけて借りたものである。

 

それにしても、この本に収録されている73人の内、数人はさすがに知らなくてもいいだろう、という女性もあったけれど、やはりほとんどは知っておくべき人たちだった。

 

でも、この歳になって来ると、新しいことを簡単には覚えられないんだよなぁ。それが一番辛いところではあるのだが。