5月の半ばともなると、昨年度の決算報告や事業報告、今年度の事業計画や予算案作成などと、私が関わっている小さなNPO団体でも、やるべきことはけっこうたくさんある。
だから今日の定例ミーティングも、予定時間をかなり過ぎたけれど、昨年度決算の最終的なチェックと、今年度事業内容と予算案作成など、数字がらみのチェックが続いていた。
こうした内容の話は、その中味の是非はともかくとして、けっこう疲れる作業になって来るから、ミーティングの参加者も、終わりごろは顔に疲労が出始める。
そんなことで今日の私は、もちろん外出もできず、エアロバイクで運動する時間も取れないという、滅多なことでは考えられないような〝閉じこもり〟の日になってしまった。
なので、一昨日東福寺の塔頭「芬陀院」に出掛けた際に、その通り掛かりでお参りに立ち寄った、やはり東福寺の塔頭の「同聚院(どうじゅいん)」の様子を少しばかり書いておく。
そもそも東福寺という臨済宗の大きなお寺は、九条道家が東大寺と興福寺に匹敵するお寺を目指して東福寺と名付け、聖一国師・弁円を開山に招いて1256年に完成させた。
(東福寺の三門は国宝に指定されている)
それまでこの東福寺の寺地は、平安中期に藤原忠平が「法性寺」を建立した場所であり、藤原道長も1006年には、その境内に五大明王を祀る「五大堂」を造営した。
この道長が造営した五大明王を祀った「五大堂」の遺跡が、「同聚院」という東福寺の塔頭として現在まで続いて来た。だから、このお寺の本尊は「不動明王座像」である。
(本尊は見えないので手水舎のお不動様を)
しかもこの「不動明王」像は、平等院の阿弥陀像を造った仏師・定朝の父・康尚の作品で、2.65mもあり、藤原美術の代表作の一つとされている。
さらに現在では、「女性の良縁・出世・芸事上達祈願」の寺となり、土塀の周りに立ち並ぶ幟には、祇園の芸妓・舞妓さんの名前が並んでいる、という異彩を放つお寺なのだ。
それというのも、明治末期から大正時代に祇園の芸妓だった、「お雪さん」という女性の家が、元々この「同聚院」を菩提寺としていたから、というのだ。
この「お雪さん」は、お客として祇園を訪れたアメリカのモルガン財閥のJ.P.モルガンの甥に見染められ、熱心にプロポーズをされたので、ついに彼と結婚してアメリカに渡った。
大正時代には珍しい国際結婚であり、しかも祇園の芸妓とアメリカの大富豪の一族の結婚ということで話題にもなるし、ということで「お雪さん」自身も苦しんだらしい。
その後、結婚したモルガン一族の相手とは死別をしたが、「お雪さん」はフランスに渡って暮らしていた。しかし第二次大戦が近付き、彼女も日本に帰国せざるを得なかった。
こうして、帰国後は1963(昭和38)年に逝去するまで、京都大徳寺の近くの小さな家で、養女とともにひっそりと暮らすことになった。
そして「お雪さん」の死後には、親族が「同聚院」にも「お雪さん」の遺骨を分骨したので、今もこのお寺に「お雪さん」は眠っていることになる。
ということで、女性にとって「良縁」や「運命を開く」というご利益や、彼女が祇園の芸妓だったことから、「芸事上達」なども合わせて、働く女性の「守り本尊」となったらしい。
さらに1965年には、お雪さんの3回忌に合わせて、フランスのメイアンという人が「ユキサン」と命名した新種の白バラを作出し、姉妹都市の京都市に送ったという。
この白バラは「同聚院」でも育てることになり、今もお寺の周囲に白い花を咲かせている。
これが、東福寺の数ある塔頭の中でも、とりわけ変わった物語を抱えている「同聚院」というお寺だということになる。
一昨日も、「芬陀院」への往きに通り掛かった時は、若い女性のお参りする姿があったが、帰り道にあらためてお参りをした時には、もう私以外には人の姿はなかった。