雪舟寺・芬陀院を独り占め | がいちのぶろぐ

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昨日のブログに、このところ「外出疲れ」を感じていると書いたけれど、結局は今日もまた午後から出掛けてしまった。

 

今日出掛けた先は紅葉で有名な東福寺の、塔頭の一つである「芬陀院(ふんだいん)」。というよりも、通称の「雪舟寺」という方が、むしろ知られているかもしれない。

 

 

 

この「芬陀院」は、東福寺の境内の西側にある「日下門」という門のすぐ西にある。そもそもは鎌倉時代の後期、後醍醐天皇の時代に、時の関白・一条内経が創建した。

 

 

 

それ以後、この寺は一条家の菩提寺となって来た。一条家というのは、藤原北家から分かれた近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家の一つであり、摂関家と言われる由緒正しい家柄。

 

というお寺で、画僧の雪舟は東福寺へ来た時には、常にこのお寺で起居をしていたという。そして、当時の一条家の長者・一条兼良の所望によって、方丈の前庭を雪舟が作庭した。

 

 

 

雪舟が作庭した庭は、1460年代に完成をみた、京都でも最古の一つとされる「枯山水庭園」で、「鶴亀の庭」と名付けられている。

 

 

 

庭の中央に、二重基壇の「亀島」が置かれ、左手奥には折り鶴をイメージした「鶴島」が配されている。ただ長い年月の間に荒れていたのを、1939年に重森三玲氏が復元した。

 

 

 

また、方丈の東庭も、その際に重森氏が新たに構築した。この東庭の北端には、後陽成天皇の第9子で、茶道を愛した関白・一条恵観が好んだ茶室「図南亭」がある。

 

 

 

 

この「図南亭」は「宝暦の火災」で焼失したが、1969年の一条恵観三百年遠忌法要に際して復元された。そこで、床の間代わりの龕(がん)には、恵観の木像が安置されている。

 

 

 

 

また、露地には恵観が愛用した「崩家形燈籠」と「勾玉の手水鉢」が配されている。さらに扁額は、詩仙堂の主・石川丈山が揮毫した「図南」の文字が掲げられている。

 

 

 

 

また方丈の襖絵は、江戸時代の画家の手で「伝雪舟筆・琴棋書画図屏風」が模写されているあたりに、この「芬陀院」と雪舟の関わりをうかがわせる。

 

 

 

さらに唐門のある玄関の間には、海北友松の5代末に当たる「海北友樵」が描いた六曲二双の屏風が置かれていた。海北派はこの友樵をもって、その系統が途絶えたらしい。

 

 

 

 

「芬陀院」自体は、塔頭としてもどちらかと言えば小さ目のお寺である。だから、ゆっくりと雪舟作庭の庭を眺め、茶室の中まで入って眺め、としても要する時間は知れている。

 

 

 

 

結局のところ、それでも30分余りはお邪魔をしていただろうか。このタイミングで、お寺にいたのは私一人だけだったので、実にゆっくりと拝観をさせていただけた。

 

 

 

一昨日、京都国立博物館で開催されている「雪舟伝説ー『画聖』の誕生」展を見に出掛けたので、その流れで「芬陀院」も是非見ておこうという気分になった。

 

 

 

それにしても、今日のような好天の週末に、このお寺の居心地よい空間を、私が独り占めしていたことは、よほどもったいない出来事のように思えた。