春雨じゃ、濡れて参ろう | がいちのぶろぐ

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朝から曇り空だったが、それでも午前中には一時的にパァーっと陽光が射した。しかし、天気予報は正確で、午後からはしっかり雨空になっている。

 

このところ、週の内に一度は雨模様の日がある。低気圧が周期的に西からやって来て、雨をもたらしている。きっと、春の天気へと移り変わっているのだろう。

 

春は三寒四温というように、暖かい日と肌寒い日が入れ替わりになり、それとともに雨が通り過ぎて行く。春の雨は、音を立てて降り注ぐよりも、しっとりと細かい雨が似合う。

 

だからと言って、今さら〝月さま、雨が〟〝春雨じゃ、濡れて参ろう〟などと言ってもね。この言葉、分かる人はわかるけれど、ほとんどが〝わっかんねぇだろうな~〟などと。

 

この〝月さま〟は、月形半平太という架空の人物だが、幕末に生きた福岡藩士・月形洗蔵と土佐藩郷士・武市半平太(瑞山)から取ったとされる劇中人物。

 

初演は大正時代だった。最初は新国劇の舞台で創設者の澤田正二郎が演じ、そののち映画で長谷川一夫や嵐寛寿郎、戦後は市川右太衛門や大川橋蔵などが演じた。

 

〝月さま、雨が〟のセリフを言う相手の役柄にも移り変わりがあったが、最終的には祇園の舞妓・雛菊となっている。この役も、戦後には美空ひばりも演じている。

 

土佐郷士の武市半平太(瑞山)は、坂本龍馬とも親交があり、土佐藩では土佐勤王党の盟主という尊王攘夷派で知られており、前藩主・山内容堂によって切腹を命じられている。

 

 

 

歴史に〝もしも〟はないけれど、武市半平太が明治の世まで生き延びていたら、この国の形の何かが変わっていたかもしれない、という人もいるくらいの人物だったらしい。

 

しかし、彼の死によって土佐勤王党は瓦解し、後に坂本龍馬とともに京都で斃れた中岡慎太郎などは、武市の死をきっかけに脱藩したとされている。

 

ということで私の世代の男性ならば、坂本龍馬と同じくらいには、この〝春雨じゃ〟のセリフで知っていたりする人物。春の細い雨とともに、ひょいと思い出したりするわけで。

 

幕末という時代は、ホントにいろんなことがまとめて起きていて、大激動の時代だったということがよくわかる。若い人たちが、足掻(あが)くように走り抜けた時代だった。

 

 

 

今も、京都・四条木屋町を少し北へ行った高瀬川の畔に、通称「土佐稲荷」という小さな祠がある。元は土佐藩の屋敷があり、その一角に祀られていたから「土佐稲荷」。

 

 

 

地元の人がお参りに行けるようにと、土佐藩もこの祠へ行く道を開けていたという。それにしても、今は高瀬川が流れる桜の名所の木屋町通りは、幕末を彩る歴史の舞台でもあった。

 

(高瀬川の桜)

 

だからといって、春の細かい雨を見て〝月さま、雨が〟と言いながら、蛇の目傘を差し掛けてくるような女性も、もういないだろう。〝蛇の目傘って何?〟という時代。

 

すべて、〝昭和は遠くなりにけり〟ということだと思う。いや、もっとはるかに前の話かな。