やっと日本史の大まかな流れが分かるように | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

このところ私が出掛けて行く先と、そこで見るテーマについて、とりあえず「源氏物語」や「紫式部」、またはそれを包んだ「平安時代」に絞られてしまっている。

 

もちろん、それには大河ドラマ「光る君へ」が大きく影響している。ただし、私自身は高校でも日本史を選択しなかったくらいで、元々、日本史にはさっぱり強くない。

 

 

 

にも拘らず、後期高齢者になってから、性懲りもなく「京都・観光文化検定(京都検定)」の1級に、無謀にも挑戦を続けている。

 

根本的なことだが、日本史に登場する大きな出来事や事件を、それほど知っているわけではない。だから、平安時代を勉強し直すためにも、見学できるものは見るようにしている。

 

そんな事情もあって、このところ資料館や博物館関係を見て歩き、少しでも基礎知識を仕入れようと、躍起になっているというのが実情だ。

 

 

 

ただ、こうした〝付け焼刃〟的なというか、行き当たりばったりの方法で知識を仕入れても、それらは結果的に十分に整理されていないから、どれほど身に着くのだろうか。

 

そんな風にも考えてしまう。しかし、この数年で京都関連と言うか、京都本というジャンルの本を数多く読み、日本史の本も読み、仏教の本を読み、少しずつ理解が進んできた。

 

 

 

もっとも京都本を読んでいても、何か大事なポイントを覚えるよりも、まずはそれぞれの出来事の時代的な前後関係などが、時折りわからなくなってしまうことがある。

 

源頼朝と北条氏が手を取り合って東国政権を作り、それと対立することになってしまった京都側の天皇はいったい誰だったのか、などは未だに〝あやふや〟なままである。

 

そもそも、〝応仁の乱〟の名前くらいは知っていても、〝保元・平治の乱〟や〝承久の乱〟などは、この2,3年の間の勉強で、やっと〝うろ覚え〟程度に覚えられたレベルだ。

 

 

 

後鳥羽上皇が仕掛けた〝承久の乱〟では、むしろ鎌倉側の結束が強まり、あっけなく決着がついてしまった。この戦いによって、後鳥羽上皇は隠岐に流されることになった。

 

これによって鎌倉側が、京都をも完全に制圧して実権を握ることになり、この事変をもって、武家が公家から完全に政治的な覇権を奪い取ることになったと思う。

 

源頼朝による鎌倉政権成立の以前に、武士が台頭するきっかけとなった〝保元・平治の乱〟や、源氏の手によって平家が没落させられた、〝源平合戦〟があったりもした。

 

だがその時点では、平清盛が全権を握ったように思われたが、天皇を頂点とした京都の公家社会の側も平家追討を源氏に命じたり、まだまだ政治的な実権の一端は握っていた。

 

そして源平の戦いの後で平家が没落し、頼朝が鎌倉で関東政権を作っても、公家社会が征夷大将軍という地位を与えることで、政治的なポジションは手放してはいなかった。

 

こんな状況が、〝承久の乱〟によって一変した。北条氏を中心とした関東政権は、京都の公家社会の意向をもはや汲み取る必要もなく、逆にコントロールできるようになった。

 

つまり公家権力という〝平安時代的なもの〟は、ここで完全に終止符を打ち、室町時代・安土桃山時代を経て徳川時代まで、武家による実権把握が続いて行った。

 

では明治以降はどう解釈されるのか、そこは私にはまだよくわかっていない。ただ、1221年に承久の変が起こり、その後、鎌倉側の支配機構として「六波羅探題」が京都に置かれた。

 

ここから明治維新に至るまでの650年間は、むしろ京都の公家社会が、武家政権から〝公認〟をもらうという実情になり、形式的な天皇制を布いて来たと言ってもいい。

 

それを〝是〟としなかった後醍醐天皇が、「建武の中興」で極めて短期間だけ実権を取り戻したが、それも結局は、足利政権によって否定されてしまうことになった。

 

こうしてみると、「源氏物語」や「紫式部」、そして「藤原道長」の時代というのは、公家政権が頂点を迎えた時代だったからこそ、一つのドラマを創出することができたと思う。

 

 

 

政治的な実権がピークを持って初めて、後世が追体験できるようなドラマを生み出し得るのだと思う。

 

つまり藤原氏による公家政権が、政治的な実権のピークを迎えた時だったからこそ、そこに「源氏物語」というドラマを生み出し得るような基盤ができたのだと思う。

 

こんなことを考えられる程度には、なんとか日本史の各時代の構造が、少しずつわかりかけてきたように思っている。ホンマ、よう知らんけど。