文化博物館のユニークな展覧会へ | がいちのぶろぐ

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昨日のブログに「三条通」のことを書いた。その中で、辰野金吾が設計した「旧・日本銀行京都支店」で、現在は「京都文化博物館別館」となっている建物のことも書いた。

 

 

 

だからと言うわけではないが、今日はその「京都文化博物館」で開催されていた、ちょっとユニークな展示会を見に出掛けていた。

 

まずこの「京都文化博物館別館」は、三条通りに面した赤煉瓦の建物で、近代建築の代表例というような位置付けになる。だから重要文化財に指定されている。

 

 

 

中に入ると、日銀の時代に銀行の執務室として使われていた広い場所が、現在は展示会場として、また簡単なコンサートなどにも使用できるにスペースなっている。

 

 

 

この別館を通り抜けた裏側に、7階建ての文化博物館の本館が建っている。こちらは2階から上の、大半が展示施設となっていて、年中、何かしらの展示が行われている。

 

つまり、フロアごとに異なる展示会・展覧会も開けるし、時には同じフロアに異なる展示会があったり、数フロアを使う大規模な展覧会があったりもする。

 

今日は、そうした中でも小さな展示会だけど、2つの展示会を見たいと思っていた。お目当ての展示会の一つは、「日本考古学の鼻祖 藤貞幹」展だった。

 

 

 

これは江戸時代中期に生きた「近世考古学の第一人者」とされている、「藤貞幹」という学者の業績を展示している。

 

頂戴したパンフレットの解説に拠れば、この人の「学問のスケールは非常に大きく、未だ正当な評価を獲得するほど理解されていない」ということらしい。

 

 

 

なにしろ、代表的著書というか業績書の「集古図」には、天文・地理から、服飾、銅器、石器、古瓦、刀剣、葬祭具、碑文など、とんでもなく広範囲の歴史遺物が収録されている。

 

それらを、一つずつ採寸しながら原寸大で細密な図に残している。今なら、定規をあてて写真を取ればそれで事足りるかもしれないが、それらを徹底的に手描きしている。

 

その執念というか、ある種の〝物狂い〟ぶりには、畏怖の念を抱くというか、言い換えれば恐怖心さえ湧いてくる。これこそがデータ収集の基本だ、ということがよくわかる。

 

 

(教科書などにも載っている寝殿造の模型の原図も藤貞幹が作成)

 

ただし、この「藤貞幹」という人の面白さは、モノを収集・分類をし、データ化したことがすべて、というところにあるような気がする。

 

いわば〝考古博物学〟なんだろうけれど、その先に何を見ようとしていたのか、私には今一つピンとこない。文化史的には、十分に意義ある仕事であることは認めるとしても。

 

それでも、ほぼ同年代の本居宣長は、藤貞幹を学問上でライバル視していたという説もあるらしい。しかし、〝わけのわからん凄い人間〟というのは、厄介な存在だと思う。

 

この種の展示会を見ていて、途中でひとりでに笑いが込み上げて来るという経験も、私にすれば初めてのことだった。何とも〝気宇壮大〟な馬鹿々々しさが、微笑ましく思えたのだ。

 

という展示を見た後で、今度は別のフロアで行われていた、「祇園祭山鉾ご神体人形と装飾品の特別公開-長刀鉾・橋弁慶山」という、今日まで3日間だけの展示を見た。

 

 

 

「長刀鉾」の、鉾の中ほど部分にある「天王座」に飾られている人形であったり、鉾の屋根についている装飾だったり、が並べられていた。

 

また「橋弁慶山」は、〝京の五条の橋の上〟で戦った牛若丸と弁慶の話から、橋の欄干に飛び乗っている牛若丸と、長刀を手にした弁慶の像がご神体の〝担ぎ山〟である。

 

山に置かれる〝総黒漆塗り〟の五条大橋や、衣装を着けていない骨組みと頭だけの、牛若丸と弁慶の人形2体などが展示されていた。

 

7月の祇園祭の巡行の際には、牛若丸は橋の欄干に片足立ちしている。だからよく見ると、橋の欄干の擬宝珠の1カ所だけに穴が開いていた。ここへ、人形の足下の棒が突き刺さる。

 

 

 

なるほど、こういう具合に分解されているのか、といったことがとてもよくわかる。それにしても、漆塗りの橋がけっこうのサイズがあり、しかも塗りの立派だったこと。

 

こちらの展示会は、展示されている品数も多くないのであっさりと見終わったけれど、こういうものをこれだけ間近に見られる機会も、部外者には滅多にないことで興味深かった。