三条通を巡る歴史の展示へ | がいちのぶろぐ

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年明けから「初詣」に「十日戎」、「京の冬の旅」の特別公開へなどと、かなりウロウロする日が続いている。ということだが、今日もほんの少しだけど出掛けていた。

 

午前中は、私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体の定例ミーティングがあったので、昼食後に短い時間だけの外出だったけれど。

 

我が家からバスで10分余りの「今出川大宮」に、「京都市考古資料館」がある。ここは1914(大正3)年に、建築家・本野精吾の設計で建てられた「旧・西陣織物館」だった。

 

 

 

(敷地に建つ「西陣」の記念碑)

 

それを1979(昭和54)年に改修して、京都市考古資料館として再出発した施設だ。だから現在は、京都市で発掘された考古学的な遺物などを収集・保管、展示している。

 

 

 

 そんな考古資料館で、京都先端科学大学の「博物館学芸員課程」で学ぶ学生と資料館がコラボした、「技と美(ぎとび)」と題された展示が行われているので、それを見学に出掛けた。 

 

 

 

12月中旬から開催していたらしいけれど、私は今朝の京都新聞に紹介記事が掲載されていたので、開催を知ったという次第だった。

 

展示そのものは、京都のかつてのメインストリート「三条通」を、いくつかの切り口で捉えてみた、という展示だった。

 

鴨川の三条通にかかっている橋は、かつて〝東海道〟の起終点だった有名な「三条大橋」。大橋の西詰めには、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」から「弥次・喜多」の像がある。

 

 

 

また、三条大橋周辺は坂本龍馬の寄宿先「酢屋」をはじめ、幕末には勤王の志士が集まっていた。さらに、新撰組と長州藩士の「池田屋騒動」の旅籠・池田屋もすぐ近くにあった。

 

 

 

こんな歴史を踏まえて、今日の展示は「刀剣」「鵺(ぬえ)」「幕末」「近代建築」「鴨川」という5つの〝くくり〟で、展示が整理されていた。

 

東海道から都への入口となる三条通の「粟田口」付近は、平安時代には刀鍛冶が集住していた。だから粟田神社の末社「鍛冶神社」には、名匠「三条小鍛治宗近」が祀られている。

 

 

(粟田神社末社「鍛冶神社」)

 

これが「刀剣」という括りのメインであり、さらに粟田神社の祭礼では、現在も重さ60kgもある「剣鉾」が、神輿渡御の先導を務めている。今日も、剣鉾の剣先が展示されていた。

 

 

(粟田祭で神輿を先導する剣鉾)

 

また「鵺(ぬえ)」は、〝東大路三条〟の近くにある「大将軍神社」が、かつては「鵺の森」だったとされ、そこに巣食う怪鳥・鵺が、夜な夜な御所に現れて天皇を苦しめていた。

 

そこで「源頼政」が「鵺の森」に赴き、弓矢で鵺を射止めて退治をしたという伝説がある。これも三条大橋と粟田口の間にあった、「鵺の森」という場所が舞台になっている。

 

 

(大将軍神社)

 

「幕末」となれば、先ほども言ったように、勤王の志士が三条大橋の近辺に大勢いて、坂本龍馬以外にも、桂小五郎の潜伏先も〝三条木屋町上る〟の恋人・幾松の家だった。

 

 

(長州藩邸跡に建つホテルオークラ京都の前にはこんな銅像も)

 

この近辺には長州藩や土佐藩の藩邸もあったし、さらに佐久間象山や大村益次郎もこの近辺で襲われて落命している。といった、「幕末の歴史」を色濃く物語っている場所である。

 

 

(土佐藩邸の中にあった岬神社(土佐稲荷)は今も残されている)

 

江戸時代の観光絵図にも「三条大橋」が描かれているし、「鴨川」の三条河原の近くには、徳川幕府の手でつくられた「石積み堤防」が、今もそのままの姿で残されている。

 

その「三条通」を、「鴨川」から西へ進むと、かつて京都のメインストリートだった「三条通」になる。この付近の三条通には、「近代建築」が今も数多く残されている。

 

「元・日銀京都支店」だった建物は、東京駅を設計した辰野金吾が設計したもので、現在は「京都文化博物館別館」として使用されている。

 

 

(京都文化博物館別館の外観)

 

(同上・内部/今も銀行の面影を残したままで使われている)

 

また「旧・家辺徳時計店」の建物は、近代洋風建築の中でも最も早い時代に属し、今ではレトロでお洒落な建物だからと、ファッション関係のお店が入店している。

 

 

(旧・家辺徳時計店)

 

このように「三条通」を巡る物語は、平安時代から現代まで一本の糸でつながって、京都という町の歴史を形作っている。それを学生たちが、いろんな切り口から展示していた。

 

ほんの短い時間での見物だったけれど、「博物館学芸員」というキュレーション(目利き)の仕事に就くための課程としては、うってつけの題材だったかもしれない。