昨日歩いた〝通り〟がおもしろかったので | がいちのぶろぐ

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『年の瀬』という言い方も、今ではもう若い人は使わない言葉になったのだろうと思う。多分12月は12月であり、最終日の31日であれば『大晦日』で済ましていると思う。

 

この『大晦日』だって、毎月末は「晦日(みそか)」で、最後の月の12月だから『大晦日』なのだけど、そんなことを言ってみても、「詮方(せんかた)ない」話に違いない。

 

まず12月そのものが「師走」と言われるが、ではなぜ「師走」と言うのか聞かれたら、きっと答えに窮してしまう。それもそのはず、確たる語源が分かっていない言葉らしい。

 

「師(師僧=僧侶)が走り回るほどに多忙だから」というのが、通説となっているけれど、明治大学文学部教授で国語学者の小野正弘氏によれば、これはまったくの俗説だそうだ。

 

そもそも「師」は音読み(=昔の中国語)であり、「走」は「馳(は)せる」という和語を当てはめているから、「しそう」ならまだしも、「しわす(しはす)」ではちょっと変だ。

 

つまり「師が走り回るほど多忙」というのは、語源としては無理があるということらしい。〝では何が語源だ〟となると、確たる答えがないのだそうだ。

 

小野氏によれば、可能性として「『としはつ=年果』『せはし=忙』などさまざまな説」があるけれど、〝これだ〟と確定はできないということらしい。

 

冒頭に書いた『年の瀬』だって、「瀬(せ)」とは「川の流れのはやい場所」であり、その反対が「淵(ふち)」で「流れが緩やかな場所」である。

 

だから、『年の瀬』という言い方も、年末は特に慌ただしく日が過ぎて行くように感じられるから、それを表現したということになるそうだ。

 

そんなこんなで、あと6時間もすれば今年も終わる。まさに「気忙(きぜわ)しい」日であり、時間である。〝だから何?〟と言われても困ってしまうけれど。

 

ところで昨日はブログにも書いたように、「因幡薬師」さんまでお守りをいただきに出掛けていた。その〝道すがら〟目にした町並みが面白かったので、書き留めておこうと思う。

 

 

 

昨日は我が家から、「四条高倉・大丸前」まで市バスで出掛けた。バス停の名前の南北の通り「高倉通り」から、ひと筋西の通りが「東洞院通り」になる。

 

私はこの「東洞院通り」を「四条通」から南へ向かい、「綾小路通り」「仏光寺通り」「高辻通り」を過ぎて、その次の「松原通り」との間にある〝辻子(ずし)〟を右折した。

 

「辻子」とは「通り」のように〝長く通っている道〟ではなく、「通り」と「通り」の間をつなぐように、その間だけある短い道を指している。

 

だから、この「辻子」を右折して少し行くと、次の通りまでの間に「因幡堂平等寺」がある、という具合になる。こうして昨日は、「因幡薬師」さんまでお参りに行った。

 

ところで、途中に通って来た「東洞院通り」が、実に〝おもしろい〟と言えばよいのか、いろんなものが目に止まる「通り」だった。

 

「四条通」から南へしばらくは、「東洞院通り」も大きなビルが並ぶ中心街らしい風情になっている。しかし、ひと筋南の「綾小路通り」を過ぎたあたりからガラッと変わる。

 

 

 

ビルももちろんあるけれど、それが小ぶりになるとともに、町家が顔を出しはじめる。もちろん住宅としての町家もあるけれど、商家としての町家が出て来る。

 

しかも、こうした町家のまま、今も商売をされている商家は、扱っておられる商品も工業品よりも工芸品的なものが目に止まる。

 

 

 

簾(すだれ)を全面に掛けている商家は、もちろん簾屋さん。これはわかりやすい。また有名な化粧筆の「熊野筆」を専門に扱っているお店は、前に〝干支の土人形〟を並べていた。

 

 

 

そして、特に面白かったのが「上羽繪惣絵具店」というお店。お隣りが駐車場になっていたので、そちらに面した壁面に「京都燈籠町 上羽繪惣」と書かれている。

 

 

 

その上には「白狐印」というブランド・イメージの絵も。最下部には「UEBAESOU]とローマ字表記で書かれているので、上羽繪惣は「うえばえそう」と読むとわかる。

 

絵具店というからは、絵の具を売っているお店だろうと思って、店の前に置かれていたリーフレットをもらってみた。すると、どうしたことでしょう!!!

 

 

 

確かに、日本画用の「岩絵具」という顔料を扱っているが、リーフレットには1751年創業の「日本最古の絵具屋」と書かれていた。あれま、それは凄い。

 

 

 

 

その上、顔料を扱うところから派生して、「和の彩り」のネイル・カラーに、「京の花色咲かせるうるおいリップ」として、口紅も作っていた。

 

 

 

日本画の顔料だけでは、売り先も限定される。だから、自分たちは「色を売る仕事」(決して変な意味ではありません!)という、ブランドの読み替えを行って間口を広げている。

 

 

 

素晴らしい展開だと思うと同時に、だけど老舗の矜持(ほこり)として、ブランド・イメージの「白狐印」は守り通している。なんだか嬉しくなってしまった。

 

そして、「京都燈籠町」である。このあたりの地名が「燈籠町」だというのはわかる。実は「上羽繪惣」の少し北隣りに、「燈篭町会所(保昌山)」という駒札が建っていた。

 

 

 

この町内は、祇園祭のときには「保昌山(ほうしょうやま)」という山を出す町内だ。この「保昌山」は、明治時代までは「花盗人山」と言われていた。

 

 

 

和泉式部に恋した平井保昌が、式部に頼まれるままに、内裏の紫宸殿の庭の梅の枝を折って渡した、といういわれに依っている。それでご神体も、この平井保昌の像になっている。

 

何とも、どんな時代も〝男のすること〟は変わりませんなぁ。「いや、保昌君、君のやったことは同情に値する」と言いたくなる。

 

そんな場所にある絵具の顔料屋さんだから、地名も大きく書きたくなったのだろうと思う。その辺りが〝祇園祭への町衆の思い入れ〟ということだと思う。