「やさしい日本語」という道具を使う心は | がいちのぶろぐ

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今日は、公的機関で働き始めた若い方々に、「やさしい日本語」の『基本のキ』を知ってもらおう、という趣旨で、私たちが研修講師の依頼を受けて出掛けていた。

 

いわゆる新人研修での一コマだけの時間配分だが、就職先として〝人の役に立つ仕事〟という希望を持って入って来た人たちだから、熱心に聞いてくれて頼もしく感じた。

 

この人たちがこれから先、実務の中で「やさしい日本語」を実際に使用する場面があるかどうかはもちろんわからない。この先の配属や、それぞれの業務内容にも拠るだろう。

 

だけど今の段階では、「やさしい日本語」という〝考え方〟があることだけでも知っておくとか、そう言えばあの時、こんな話を聞いたことがある、というだけでも十分なのだ。

 

何かの拍子で、自分が誰かと応対する機会が訪れた時に、〝あっ、そうか。こういうことだったのか〟と、その瞬間にピカッと閃いてくれたら嬉しい。

 

昨年度は、保育・幼児教育に従事する人向けに、「やさしい日本語」のパンフレットを作成し、外国人保護者の方とのコミュニケーションでの〝考え方〟をお伝えした。

 

 

 

今年度は、薬局・ドラッグストアで働く人に向けて、クスリを必要とする外国人客が来られた場合の、応対についてパンフレットや動画教材を作っている。

 

この時代になって、仕事として定住外国人や訪日客の方と接する可能性がある職場は、すでにあちこちで結構あると思う。今では、この国の3%が定住外国人だから。

 

こうした現状を踏まえて、私たちは、外国人とのコミュニケーションの道具を、一つでも多く持っていてほしいという思いから、いわば〝草の根〟のところで活動をしている。

 

それは、〝誰かに喜んでもらいたい〟というほどのことでもなく、誰もが少しだけ住みやすい社会になってほしいという、単純だけど大事にしたい気持ちから出発している。

 

とりわけ公的機関で働く人たちは、相手が外国籍の住民ではなくても、高齢者や障がいを抱えている人など、身の回りにいるすべての人への気配りを、持っていてもらいたいと思う。

 

お互いが〝打ち解け合う〟といった高いレベルの要求ではなく、少し会話ができたとか、こちらに対して気を使ってくれた、というだけでもホッとできる人もいる。

 

〝多文化共生〟と言うと難しく考えすぎて、身構えてしまいがちだけど、どこで暮らしていても、〝お互いさまのことだから〟と言える状態になれば、それが一番だと思う。

 

最近は、対外的に威勢のいいことを、できるだけ声高に発言することが、肯定的に捉えられるような雰囲気も感じられるけれど、本当にそうなんだろうかと思ってしまう。

 

「差別」とは、〝いわれもなく人を見下し、集団から排除する〟という思考方法であり、その根幹をなしているのは『いわれなき選民主義』に他ならないと、私は思っている。

 

誰かが他の誰かより〝上の存在である〟とか、〝下の存在である〟といったことは、本質的にあり得ないことだし、そういう思考で〝凝り固まっている〟人の方がよほどみじめだ。

 

「やさしい日本語」それ自体は、単にコミュニケーションにおける一つの道具でしかない。それよりも、コミュニケーションを取ろうという姿勢が、まず何よりも優先される。

 

誰もが少しだけでも暮らしやすい世の中になるために、お互いを分かり合える道具を一つでも多く持つことは、決して悪いことだとは思わない。