お寺の掲示板とひねくれ者 | がいちのぶろぐ

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数日前のことだが、我が家の近くのお寺の掲示板に、こんな伝道掲示が張り出されていた。

 

「笑っても 泣いても 顔は一つ」

 

ここのお寺の掲示板に張り出される言葉は、けっこう良いものが多くて、通り掛ると私もつい気になって読んでしまう。読むと言っても、短いものだから一瞬のことで済むのだが。

 

それにしても、今回は何かがちょっと胸の中でコツンとで引っ掛かった。もちろん素直に読めば、「笑うも泣くもその人の人生だから、笑って暮らす方が良い」という意味だろう。

 

笑顔も泣き顔も、同じ人の顔の表情の違いだから、笑顔で暮らせるならそれに越したことはない。泣き顔でいるより、笑顔になろうよ、というポジティブな意味合いの言葉だと思う。

 

だけど、何かが私の胸にぶつかった。嫌味な捉え方をしたら、「泣こうと笑おうと、所詮お前さんの顔は一つだけで変わらないよ」と、受け取れなくもないのではないか。

 

つまり、〝ひねくれた〟考えの人であれば、「ブスは泣いても笑っても所詮ブス」という意味に受け取るかもしれない、という〝ひねくれた考え〟に、私の方が囚われてしまった。

 

こうしたお寺の掲示板なるものは、Wikipediaによれば「明治時代以降に衆生教化のため、教義等を記したポスターを掲示するようになった」ということらしい。

 

こうした掲示板の使い方を、「『掲示伝道(けいじでんどう)』といい、この掲示伝道を行う媒体が『伝道掲示板』」ということになる。

 

 

 

どんなことが書かれるのかといえば、「仏典の一節を引用したり、仏教教義に基づき人々の心を揺さぶるような標語を掲示」している場合が多い、ということだった。

 

こうした掲示を行うのも、「寺に関心を持ってほしいという観点」からのことだから、「境内ではなく門前に置かれていることが多い」ということになる。

 

時には、自分の宗派の大きなイベントの告知などのポスターなどが貼られていることもある。こうしたポスターから、特別拝観などが行われるといったことを知るときもある。

 

 

(イベント告知も張られた伝道掲示板)

 

それにしても、先日見た「笑っても 泣いても 顔は一つ」という標語は、よくできているようで、私にとっては何だかやはり腹にストンと落ちて来ない。

 

人によって、こういうことだって起こり得るのだと思う。〝人に伝える言葉〟って、やはり難しいと思う。『伝える言葉と、伝わる言葉』の違いと言っても、いいのかも知れない。

 

「伝える言葉」とは自分が〝発信〟した言葉であり、自分が送り出したけれど、それが自分の意図したとおり、〝正しく受信〟されているかどうかはわからない。

 

一方で「伝わる言葉」というのは、発信した言葉が意図した内容通りに「伝わる」ということを意味している。こちらの〝想いが伝わって〟いるのだ。

 

 

 

この前実施した、学童クラブや児童館の指導者向けの「やさしい日本語」の研修で、ワークショップを行った際にも、参加された方々にこの点を一生懸命に説明をしたつもりだ。

 

「伝える言葉」は、極端な言い方をすれば言いっ放しでかまわない、となる。自己満足だけで成り立っている、と言ってもいい。それでは、何のための行為かわからない。

 

やはり、こちらの伝えたい意図が正確に〝伝わって〟こそ、発信した意味がある。数日前にお寺の前の掲示板を見て、またそんなことを思い返していた。