大徳寺塔頭の瑞峯院へ拝観に | がいちのぶろぐ

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昨日、大徳寺の方丈が解体修理されている現場の、見学会に参加していた様子を書いた。その際に、早く終わったので大徳寺の塔頭も拝観をしてきた、と書いた。

 

 

 

そこで今日は、昨日についでのように訪れた、塔頭のことを書いておこうと思う。

 

ご存じの通り、塔頭とは大きなお寺の敷地内にある、子院といった立場のお寺であり、大きなお寺の高僧だった方などに、後援者が隠居所のようなお寺を建てて差し上げてきた。

 

言い換えれば、大名・領主などが後援者となり、自分の家の〝菩提寺〟を建てて、大寺の高僧を招き菩提寺の住職を務めてもらった、と言っても大きな間違いではないと思う。

 

 

(大徳寺塔頭・黄梅院/織田信長が父のために建てた)

 

だから京都にある本山クラスの大寺は、それぞれに創建者などの由緒が着いた、いくつもの塔頭を抱えている。特に禅宗系のお寺に、そうした状況が多いように思う。

 

だからグーグルマップなどを見て、大徳寺の周辺を拡大すると、○○院などとと名付けられた多くの塔頭寺院に囲まれていることを、理解してもらえると思う。

 

大徳寺の場合、こうした塔頭だけで22もあるそうだ。昨日は、その塔頭の中の「瑞峯院」を拝観して来た。

 

 

(大徳寺とその塔頭/淡交・別冊(平成27年)より)

 

今までも、「京の冬の旅」などと銘打たれた特別公開で、日ごろは中に入ることができない塔頭寺院などが公開されていれば、私もなるべく行くようにはしてきた。

 

 

(大徳寺塔頭・聚光院/三千家の菩提寺にもなっている)

 

ただ昨日行った「瑞峯院」は、ほぼ常時という感じで積極的に公開しておられるので、私の中では、かえって〝いつでも行けるから〟と後回しになっていた。

 

ここは少し入り組んだ場所にあるので、「大友宗麟公菩提寺」と書かれた看板と、「瑞峯院」と刻まれた石柱が、お寺への〝道しるべ〟となるように岐れ道に立っていた。

 

 

 

表門の横にも「独坐庭」と、庭園の名前を刻んだ石碑も立っている。横にある表門は、重要文化財だそうだ。このクラスの寺院になれば、重要文化財がもう目白押しみたいなものだ。

 

 

 

 

さて、この塔頭寺院はそれほど広い寺域ではないが、九州の豊前・豊後(福岡・大分県)の領主で、キリシタン大名として有名な「大友宗麟」が1535年に創建したお寺。

 

 

 

そして何よりも、方丈の南に面してある枯山水の「独坐庭」が、寺号の「瑞峯」をテーマとした「蓬莱山式庭園」になっていることでも知られている。

 

 

 

 

この庭の白砂は、普通に見られるより砂紋がかなり深く、これで荒波が表現されている。右手奥の「蓬莱山」を表す立石から、荒波を受ける険しい岩礁の半島が表現されている。

 

 

 

この庭は、昭和期を代表する作庭家の重森三玲氏によって、1961(昭和36)年に作庭された。

  

また深い砂紋は、住職が毎朝描いておられるということだが、これだけでも大変な作業だと思う。以前、庭園プロデューサーの烏賀陽百合氏が、何かにそのように書いておられた。

 

また、方丈の裏手に当たる北庭は、同じく重森三玲氏が同時に作庭し、「閑眠庭」と名付けられている。こちらも枯山水だが、南庭の「独坐庭」とはまったく趣が異なっている。

 

 

 

「閑眠庭」は、開基の大友宗麟がキリシタン大名として知られていたことから、縦四個、横三個の石の配置が〝十字架〟に組まれているという。

 

 

 

荒波打ち寄せる厳しい表情を表している「独坐庭」と、穏やかで静かな「閑眠庭」の対比も、また見る人の興味を引く庭の構成になっている。

 

さらに方丈の横や裏手にも、表千家の歴代宗匠が手掛けた、複数の茶室が設けられており、その前には露地庭も設えられている。

 

 

(茶室・安勝軒)

 

このように、さして広くないお寺でありながら、見るべきポイントもたくさんあった。さらに、昨日は私以外の拝観客は、すべて外国人の観光客の方だけという状態だった。

 

 

 

平日の午前中だったことも影響していると思うけれど、昨日の客層から、日本の方々にもこうした庭園にもっと興味を持ってもらえたら嬉しいな、という気持ちがちょっぴりした。