ラーメン1杯1,000円の壁問題 | がいちのぶろぐ

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ラーメン1杯の値段が1,000円以上……これを「高い」と感じますか?それとも「安い」と思いますか?

 

原彰宏さんという方の、「ラーメン1杯の値段が1,000円以上……これを『高い』と感じますか?それとも『安い』と思いますか?」というメルマガの冒頭の文章である。

 

 

 

とても難しい問題提起だ。現在、「飲食店を取り巻く環境は、『物価高騰による原材料費値上げ』と、『人手不足による労働力確保困難』、それに伴う『人件費の高騰』という事象に囲まれて」いる。

 

まったくその通りだと思う。だからといって、「利益確保のためにラーメン1杯1,000円以上の値付け」が通る話なのかどうか、という問題提起だ。

 

これが〝とても難しい問題〟だということは、誰にもすぐわかる。つまり、毎日外食で昼食を食べると考えた場合、22日/月の外食で2万円を超えることになる。

 

筆者の原さんによれば、「都会のサラリーマンの昼食事情は、もはやワンコイン(500円)戦争に突入して」いるという。普通に支払い可能な金額は、〝その半分〟ということだ。

 

だから、「原材料費や人件費高騰にもかかわらず、その分を価格に転嫁できずに倒産してしまうラーメン店が増えてきている」ということだ。

 

この状況は、小規模の経営をしているラーメン店の問題かもしれない。だから一方で、「大型チェーン店の価格競争」によって、「低価格・薄利経営での体力勝負が続い」てきた。

 

要するに、全国展開している牛丼チェーンなどが、300~400円の価格帯で昼食を提供してきたのだから、それとの勝負と考えれば、1,000円以上などあり得ない価格となる。

 

もちろん、この3年余りのコロナ禍で、いったん離れた客足が戻らないことも影響しているだろう。でも、それ以上に、この国の経済構造そのものに問題があるのだと思う。

 

この失われた30年の間は、収入はほぼ頭打ちのままだし、それがもたらす悪性のデフレによって、モノの価格は下がることはあっても、上げられる要素はなかった。

 

もちろん、そんな中でも〝勝ち組〟と言われる少数の人たちはいるけれど、ボリュームゾーンとなる多数派の人は、その言い方をすれば、ごく普通に〝負け組〟になって行った。

 

その結果、ラーメンに1,000円は払えるかという問いに対する答えとして、もし1,000円を超えれば、まず多くの人には振り向いてはもらえない、という状態になったのだ。

 

ところで原さんは、「かつてのリーマン・ショック後の消費マインドとは、いまは少し変わって」来たという。リーマン・ショックからでも、もう15年が経とうとしている。

 

それは「良いものにはお金を払う」し、「モノができる“プロセス”にお金を払う(コト消費、物語消費)」になっているというのだ。

 

これは、まさに「消費者側が、完全に『二極化』している」状態に他ならない。原さんも、「今どきの言葉を使えば『分断』『格差』になる」と述べている。

 

例えば最近のラーメンは、あれこれと手が込んだものが出て来ており、そうした場合は仮に高い価格設定であっても、いわば「物語消費」となっていると思う。

 

その代わり、こうしたラーメンを食べることが〝月に一度の贅沢〟であったり、〝自分へのご褒美〟であったりという、日常から離れた〝非日常〟の贅沢となって行く。

 

たった〝1杯のラーメン〟が贅沢品となる社会は、正常なのかどうか。〝たかがラーメン、されどラーメン〟と言って、済ましていられるのかどうか。

 

そんな状態では、町にごまんとある〝普通の〟ラーメン店では、月に一度というお客ばかりでは、売り上げが足りないと悲鳴を上げるだろう。

 

 

 

これはつまりラーメン1杯の価格よりも、現状の日本の経済構造がこれで良いのか、という問題に帰結する。原さんも、「良いものを安く」は「もはや商売では」ないという。

 

だからメルマガの最後で、「『ラーメン1,000円の壁』問題は、何もラーメンにかぎらず、日本における『商売』そのものあり方が問われている」と書かれていた。

 

そうなのだ。根本的な労働対価の考え方を、一から見直す必要があると思う。何よりも、まず非正規労働の存在や、パート収入の壁などが問題になっているのではどうしようもない。

 

そこを変えられるのは、政治の決断しかないと思う。まぁ、何より先に、議員定数半減・議員収入半減を実行してからの話だと思う。だから、これは永遠に無理ということだ。