周山街道の分岐点・福王子神社 | がいちのぶろぐ

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夜中には強い雨になっていたが、目が覚めたころにはその雨も何とか降り止んでいた。その後は徐々に天候が回復に向かい、昼食の後は外出しようという気になるほどだった。

 

ただ、そんなに遠くまで行くのも気が進まなかったので、〝市バスの旅〟のような感じで、一度行ってみたいと思っていた神社を訪れてみた。

 

京都の市街地で言えば、北西の端っこと言える場所に「福王子」という交差点がある。東へ行けば御室仁和寺、西へ行けば広沢池から嵯峨野、北へ行けば高雄神護寺から京北方面。

 

 

 

その交差点に面して建っているのが「福王子神社」で、祭神は「班子女王」。平安時代の光孝天皇の女御で、宇多天皇の生母である。神社の説明書きには「班子皇后」と書かれている。

 

 

 

どちらが正しいか、私にはわからない。そもそも平安時代の天皇と言えば、お相手の女性など複数いるのが当たり前という時代だ。皇后と中宮だって、どう違うかなど知らない。

 

それよりも、宇多天皇は父・光孝天皇の遺志を継いで、「仁和寺」という寺を創建した。そして退位後に出家し、この寺に御室(僧房)を建てたから、「御室仁和寺」と呼ばれている。

 

 

(御室仁和寺/仁王門)

 

その宇多天皇が仁和寺の鎮守社としたのが、後の「福王子神社」ということらしい。元々は周辺の村々の総鎮守社として、「深川神社」という〝延喜式内社〟であったらしいのだが。

 

それが、ご多聞に漏れず応仁の乱で荒廃していたが、徳川三代将軍・家光と仁和寺法主・覚真親王が、仁和寺の伽藍を再建するときに合わせて、こちらも再建したという。

 

 

 

それで50年ほど前に、この「福王子神社」の本殿、拝殿と鳥居が国の重要文化財に指定されたということだ。

 

こういう経緯があるので、この神社の祭礼の時には、神輿が周辺の氏子地域を巡った後で、今も勅使門から仁和寺の宸殿の前まで入っているという。

 

面白いものだと思う。明治政府は「廃仏毀釈」政策を徹底させたから、その時点で日本中の神と仏が引き裂かれてしまったけれど、それまで神と仏は一体のものだった。

 

 

 

今日では神社は神社、お寺はお寺として、それぞれを別のものとして考えるから、私たちに本来見えるべきものが、残念ながら見えなくさせられているように思う。

 

〝神〟は〝仏〟を守護する存在であったし、もっと言うならば釈迦の教えとは異なるが、仏教の中には〝天部〟の存在として、ヒンドゥーの神々だって数多く入り込んでいる。

 

いずれにしても、こうした創建当時からの経緯があって、「福王子神社」は現在も、すぐ東にある大寺の「御室仁和寺」と深い関係にある神社、ということになる。

 

 

 

そんな神社だから、一度お参りをしておきたかった。ただ、高雄・神護寺から北山杉の里・中川地区を通って、旧・京北町から旧・美山町に抜ける「周山街道」に面した境内も狭い。

 

周山街道は、〝かやぶきの里〟で有名な旧・美山町(現・南丹市美山地区)から、若狭・小浜市へ至る〝西の鯖街道〟でもある。東の〝鯖街道〟は、小浜市から京都・大原に至る。

 

それでも、取り立ててどうこういうほどの神社だとは、とても思えない。本殿の前でお参りをしていても、福王子交差点を通る多くの自動車の騒音が、直に耳に入って来る。

 

 

 

ただ、塀越しに見える本殿は古風な春日造りで、向拝の付いた切妻屋根の妻入りという形式になっている。拝殿も寂びた感じがしている。

 

 

 

もっとも氏子地域は、周辺の御室・鳴滝・常盤など旧・六ヶ村という広い地域であり、それなりの格式を持った古社ということになるのだろう。

 

こうして、今日はほんの少しこの神社にお参りをしただけで終わったが、〝市バスの旅〟になってけっこう楽しいひと時ではあった。