京都検定の公開テーマが発表に | がいちのぶろぐ

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一昨日、「京都・観光文化検定」の今年の「公開テーマ」が発表になった。私はメール登録をしているので、それを報せるメールが届いた。

 

 

 

この2年間1級を受験したが、惨敗を喫してきた。だから、「石の上にも3年」というわけではないが、今年はせめて準1級にたどり着きたいと思う。

 

2級、3級の場合は4択問題なのだが、1級の場合は自力で解答をしないといけない。4択であれば選択肢自体がヒントになる。だけど、自力解答だとそうは行かない。

 

自分が知っていなければ、どうにも解答のしようがない。選択肢を見て、〝ああ、そうだった〟と思い出す、ということにはならないのだ。

 

さらに1級は、合格ラインが80%以上に切り上がる。2,3級と同じ70%以上を獲れても準1級認定になってしまい、まだ1級合格にはならない。この10%差も辛いところだ。

 

ということで、今年12月に実施される検定の1級の「公開テーマ」は、「家康 伊賀越えの道~伝承とその周辺の史跡」ということだった。さて、これは弱った。

 

「本能寺の変」が起こった時、堺に滞在していた家康はわずかな供回りを連れただけだった。信長も同じような状況で本能寺にいて、むざむざと明智勢に討ち取られてしまった。

 

 

(この前の大河ドラマは明智光秀だった)

 

だから家康は変を知った段階で、急きょ本拠地の岡崎を目指して、必死の逃避行を行ったという事実は知っている。しかし、細かいことはまったく知らない。

 

その時、家康が選択した逃走ルートが「伊賀越え」ということになる。大阪湾岸から伊勢湾の先まで、大きな街道を通ることなく、山道などを通って3日間で帰り着いた。

 

これは大変な難行軍だっただろう。明智の軍勢が、追手をかけてくるかもしれない。また武士ではない〝落ち武者狩り〟の集団と、どんな形にせよ遭遇するかもわからない。

 

その上伊賀の辺りには、それまでの経緯から織田―徳川連合軍と敵対する勢力が存在した。もしこれと戦うことになっても、50人足らずという少人数で戦闘の装備もない。

 

こういう状況の中で、とにかく家康の人生で最大のピンチと言われる「伊賀越え」が行われた、という歴史は知っていた。けれど、知っていることはこれがすべてである。

 

そこで今日はコンピュータの前に座って、一日中、検索をかけまくっていた。WikipediaからYouTubeから、その他さまざまな情報源など、とにかくヒットするものを探していた。

 

こうしてヒットしてきた中味を、メモ用紙にとにかく要点を書き写していった。これでどうにか、今までより多少は詳しいアウトラインを把握することができた。

 

さて次は、テーマの「伝承とその周辺の史跡」を調べて行かなければならない。こうして詳しい情報を収集しても、公開テーマは10問だけで、150点満点の20点分に過ぎない。

 

いずれにしても、今年の12月には何とか70%を獲得して、準1級にはたどり着きたいものだ。「目指せ、死ぬまでの1級合格」を私の生涯目標にして。