ブリコラージュ的に作り上げる学習体験の意義 | がいちのぶろぐ

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あるインターネット情報誌に掲載されていた、対談の講演録〟的な記事の中で、ちょっと目を引く面白い内容が話されていた。

 

記事のタイトルは、「計画から逸脱する『好奇心』とどう向き合うか?」と題されていた。

 

全体的な内容は、デザインワークにおいて、〝好奇心〟から本筋から逸脱したり、離れたりしてしまう問題を、どのように考え、いかに対処すべきか、といったことが話されていた。

 

これは、実生活においてもしょっちゅう起こり得る問題であり、それこそ子ども時代の体験として、目指す目的地への途中に、道草・脱線をすることは日常茶飯事だったと思う。

 

しかし仕事に置き換えて考えた場合、目指すべき〝目的〟があり、そこへたどり着くための計画が立てられていることも多い。これを、途中で勝手に脱線したりしては困ってしまう。

 

ここで、とりわけ興味深い考え方が提示されていた。それは、「教育」という問題を考える場面で起こり得るケースである。

 

「教育」は「カリキュラムの中で〝いかに目的に到達させるか〟という目線」が強いから、設定したゴールから出発して道筋を考える「『逆算型』の設計がなされている」という。

 

一方「学習」という場合、ありあわせのものをいかに活用したり援用したりして、目指すものへと仕上げて行くか、「自ら〝ブリコラージュ的に獲得〟していく要素が強い」という。

 

この「教育」と「学習」の間に存在する差異は、「与えられる」と「獲得してゆく」の違いと言えるかもしれない。同じようでありながら、対照的なものだということだ。

 

言い換えるなら、『まち歩き』をするときに、「質の良いガイド」に導かれて、効率的に町を見て歩くケースと、白地図を渡されて、自らの足で街を歩き回る違いと言えようか。

 

 

(以前に同志社大学院の講座で考えていた「まち歩き」の考え方)

 

白地図には「見るべきもの」や「行うべきこと」は書かれていないから、漫然とその辺りを歩くだけで、結果的に何一つ得るものなく『まち歩き』を終える人が出て来るかも知れない。

 

逆に、行き会った人と話したり、自ら見つけたものを起点に、歩き回るべきテーマを見出したりして、ガイドによる案内ではない『まち歩き』を体験する人がいるかもしれない。

 

「質の良いガイド」に導かれて、効率的に町を見て歩くケースは、先述した「教育」であり、「『逆算型』の設計がなされている」状態だ。

 

一方、自らの考えに従って、歩き回るべきテーマを見出して『まち歩き』を行うのは、〝ブリコラージュ的に獲得〟された『まち歩き』に他ならない。

 

ここで「学習」の結果として、当の本人には経験値の積み上げが行われるが、それは事前に計画されていた目的から見れば、大きく逸脱した結果や経験値であるかもしれない。

 

ただ、今日見掛けた記事でも、この考え方をすすめれば、「〝計画通り〟にいかないことに対して、『許容すること』はデザインにおいても重要なのではないか」と考えていた。

 

「デザインにおいても、体験を〝計画的に設計〟しすぎるのは、面白みに欠けてしまうのではないか」というのである。

 

「体験を〝計画する〟」のではなく、体験に対して「アフォードする(便宜を与える)という視点でデザインする」ことが、面白みを生み出すのではないかと述べられていた。

 

もっと言えば、「自分がデザインしたものを使っている人たちを見て、〝予想外の行動をすること〟をどう面白がるかという視点が大事だ」とも説明されていた。

 

このことから、「『課題解決』することを意図として持ち」つつ、課題解決することによって「新しい課題が生まれ続ける」という考え方を持つことが重要だと、結論付けていた。

 

この話はそこだけを取り出すと、〝何のことやら〟となり兼ねないが、ありあわせのものを活用・援用して目指すものへと仕上げて行く、〝ブリコラージュ〟の発想が重要だと思う。

 

自ら〝「学習」することを学ぶ〟というと、連環的な言い方になってしまうけれど、「教育」が持つ「『逆算型』の設計」によって、視野が狭められることの危惧を指摘していると思う。

 

この記事を読んでいて、これは意外に重要な視点を提供しているではないかと、何となく思えて来たので。