高齢者になるってことは | がいちのぶろぐ

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この間、朝に入れ歯を装着した時、あまりに痛くて食パンすら噛めない日があるので、行きつけの歯科に予約をして、今日は残っている歯の具合のチェックなどをお願いした。

 

装着の際の痛みの原因は、今日のチェックで歯茎が少し炎症を起こしていると言われた。あまり痛みがひどかったり、何度も痛むようだと、その時は改めて治療しようとなった。

 

自分の歯が残り少ないので、それを全部抜いて総入れ歯にすると、噛んだ時の力の入れ具合など、細かいところで影響が出て来るから、なるべく自分の歯を残そうと言われている。

 

目は手術で視力を何とか取り戻せたが、一応、寛解状態にあるとはいえ、がんが見つかってからまだ2年足らずである。〝5年生存してなんぼ〟だそうだ。何とも厄介なことだ。

 

 

 

あと3年何事もなく、このまま推移してくれたら、〝何とか、持ち堪えることができましたね〟と言ってもらえるらしい。10年を過ぎると、まずは卒業ということだそうだ。

 

歯がダメになり、次には男性にありがちな前立腺で泌尿器科のお世話になり、そうこうしていたら今度は目がダメになって手術をする羽目になり、最後にはがんが見つかった。

 

いやもう、全身がガタガタである。75年以上も使用してきたら、あちこち部品交換やらメンテナンスが必要になり、とうとう昨年は車庫に入っての総点検のようなものだった。

 

これまでは体のことなど気遣いもせず、お酒とタバコが大好物と言って過ごしてきたのだから、こうなってしまうのも、当たり前といえばそれまでだろうと思う。

 

 

(禁酒・禁煙を申し渡されてから、2年近くになるわけだな)

 

歳を取れば、何が起こっても不思議ではない。いや、明日生きて再び目を開けるのかどうかなど、明日になってみなければわからない。高齢者とは、そういうものだと思い始めている。

 

だからこそ近い日時に実施されて、半端じゃない苦労をしないと合格に手が届かない、「京都・観光文化検定」の1級にチャレンジしようとしている。

 

 

遠い日に検定試験が行われるのであれば、その時まで生きている保証がないけれど、幸いなことにこの検定は毎年行われるのだから、一年ごとに合格を目指して励みにできる。

 

今年の前半は、京都に生まれ育っていながら、今まで出掛けたこともなかった場所へ随分と足を運んだ。そこが寺社仏閣のこともあれば、旧跡・遺跡などということもあった。

 

実際に見ておけば、現地へ足を運んでいれば、〝なにがしか〟のことが記憶の底に残ってくれるかもしれないから、試験場でフッと思い出せる手掛かりになるかもしれない。

 

 

(日野法界寺の国宝・阿弥陀堂)

 

しかも、その場所へはやはり行っておかなければ、と思い立ったなら、京都に住んでいる強みというか、いつでも割と簡単に出掛けることができる。

 

とは言え、もう運転免許も返納してしまったし、我が家には車もないから、バスや電車の便が不便な場所にはそう簡単には行けない。

 

おかげで京都府南部の寺社群や、京都市内だけど西山地区にある多くの寺社など、是非行っておきたいと思いながら、まだ行けてない寺社も多い。

 

いずれ来年も、また受験することになるだろう。だって、合格基準点も高いし、内容も難しいから。今年、あっさり合格などと高望みをしてみても始まらない。

 

だから今年行けなかった場所は、来年の気候が良い時に弁当持ちで出掛けよう。これが〝生きがい兼散歩〟になって、健康法にもなるのであれば、一石二鳥そのものだから。