国宝の茶室「待庵」と大山崎町 | がいちのぶろぐ

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さすがに今日は、積極的に散歩に出ようという意欲が湧いてこなかった。午前中から、あまりにも暑すぎたから、情けないけれど動く気にならなかった。

 

暑いと言っても、京都はさすがにそこまでではなかったけれど、群馬県伊勢崎市では、早くも今年2度目の40℃越えになったらしい。6月でこれでは、この先が思いやられる。

 

今年の猛暑について、お昼のワイドショーでも詳しい解説がされていたけれど、それよりも猛暑の夏は豪雨の被害が出たケースが多い、という言葉の方が気になった。

 

こんな状況では、高齢の身としてはいよいよ〝引き籠もり〟になり始めている。こんなことではいけないと思う。明日は6月30日で、「夏越の祓」の日だから必ずどこかに行こう。

 

「茅の輪くぐり」で、神社の鳥居の下などに設えられた「茅の輪」をくぐり、半年分の〝厄落とし〟をし、「疫病」から身を守って残りの半年に備えることにしよう。

 

 

(白峰神宮(上京区)に設えられた「茅の輪」)

 

何よりも世間全体がいよいよポスト・コロナをめざして、コロナとの共存、ウィズ・コロナの社会に向けて舵を切り始めた。だから今年は、〝茅の輪〟がそのシンボルとなりそうだ。

 

ところで昨日のブログでは、大山崎町の「歴史資料館」に行ったことは書いたけれど、その中であえて書かずに置いたことがある。それが国宝の茶室「待庵」の話である。

 

 

 

この茶室「待庵」は、JR「山崎」駅前にある「妙喜庵」というお寺の中にある。千利休が作ったと確定されている唯一の茶室である。

 

 

 

 

明智光秀との、天下分け目の戦いに圧勝した豊臣(羽柴)秀吉は、一時的にこの山崎に城を築いて滞在した。その際に千利休が大至急で茶室を作って、秀吉を招いたという。

 

 

 

秀吉が作るように命じたのか、利休が自らの意思で作ったのか、私にはそうした細部のことは全く分からないけれど、この茶室がそれまでとは大きく異なっていることは確かだ。

 

「狭い」上に、「粗い土壁」を多用した、究極の「侘び茶」の茶室になっていることで知られている。茶室の広さは2畳敷きで、控えの間などを入れてやっと4畳半のスペース。

 

 帰路にJR「山崎」駅から電車に乗る前に、駅前の「妙喜庵」に一応は立ち寄ってはみたけれど、石段を数段あがったところにある、住宅のような雰囲気の小さなお寺である。

 

 

 

それで玄関先に「拝観謝絶」と、「希望者は1カ月前に往復葉書で申し込むように」という趣旨の札が掛かっていた。高飛車ではなく、ホントに対応しきれないのだと思う。

 

それくらいに小さなお寺だった。ということで、実は「大山崎町歴史資料館」の中に、この国宝の茶室「待庵」をコピーしたものが作られ、展示されている。

 

 

 

ということで昨日も阪急で「大山境」駅まで行って、「妙喜庵」へ行く前に、まずは「大山崎町歴史資料館」で、茶室「待庵」のコピーを先に見学していた。

 

 

 

展示された原寸大の「待庵」のコピーも、前にある柵から内側へ入ることはもちろんできない。「躙口」や窓など、限られた開口部から、室内を覗き込むことしかできない。

 

 

 

さらに、資料館の中は撮影お断りである。だから「待庵」のコピーも当然撮影禁止。それでも「躙口」から中を見たときには、最初に「セマッ!」と思った。

 

畳敷の空間である。そこに4尺×2尺5寸ほどの床の間が付いているだけ。しかも壁全体が〝黒っぽい粗壁〟になっているから、より一層うす暗く狭く感じられる。

 

展示用に、それなりに照明が当たっていてもこの暗さである。秀吉・利休の時代は、通常であれば特に照明はない。小窓から入る明りだけである。その小窓が3カ所だけ。

 

 

 

この狭い部屋の中で、〝おっさん〟二人が面付き合わせて茶を飲む光景。これをどう評価すればいいのだろうか。しかも一人は、その時〝最高権力者〟になろうとしている人物。

 

なんともキナ臭い状況だということもできる。周囲の人間からすれば、ここで二人が何を語り合っていたか、ものすごく気になるだろう。あえて、それを二人が演出したのかも。

 

 

 

〝そんなこんな〟があった場所が、JR「山崎」駅前の「妙喜庵」というお寺。いやなかなかの舞台設定であり、この大山崎町という小さな町が歴史に名を残す町の所以でもある。

 

 

 

そんなことで昨日は、「離宮八幡宮」に〝油座〟があったがゆえに室町時代から江戸時代まで〝守護不入之地〟であり続けた、という話を書いたけれど、いろいろ面白い土地である。

 

 

 

 

京の都と難波の津の間を結ぶ〝要衝〟となる地だったからこそ、大山崎町が豊かな町になって行った。そこにはさらに、こんなに小さくて大きな意味を秘めた国宝の茶室もある。

 

ユニークな町を見物に出掛けていた、ということで、昨日の続報を書いておいた。