大山崎町の離宮八幡宮へ | がいちのぶろぐ

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〝やはりと言うか、昨日の関東甲信・東海などに引き続いて、今日は九州北部から中四国・近畿・北陸まで一斉に梅雨明けが発表されて、残るは東北地方のみとなった。

 

ということで、京都は平年よりほぼ3週間早く梅雨が明け、梅雨入り宣言からの期間もわずか2週間という短さになった。おかげで、この夏は各地で水不足が心配されている。

 

私も昨日のブログで書いておいたように、山沿いの場所へ行って、坂道や石段などを上ることがない、平地を選んでの散歩に出掛けてきた。

 

それも、歩く距離が極力少なくなるようにって、それではもはや散歩とは言えないだろう。だけど、それでも暑かった。合計でせいぜい2kmほど歩いただけだったけれど。

 

往きは阪急電車「大山崎」駅まで電車で行き、まずは駅の改札口からほんの100mほどのところにある「大山崎町歴史資料館」へ。

 

 

 

 

大山崎町は大阪府と京都府の府境に当たる町で、天王山が桂川・宇治川・木津川の三川合流点に迫り出した場所になる。それほど広くはないけれど、歴史的には古い町である。

 

 

 

何と言っても有名なのは、「天下分け目の天王山の戦い」。これだけで、もう十分に食べていける(?)くらいに、歴史の教科書に名前が出まくっている町である。

 

 

 

だから資料館でも、秀吉と光秀の顔の部分がくり抜かれた、「いざ!天王山」という顔出しボードがお出迎えしてくれていた。爺さん一人では、面白い絵面にはなりっこないが。

 

 

 

2階にある常設展示室で、大山崎町周辺の地図を見ていたのだが、この大山崎町はかつて「山崎の津」として、大阪湾の難波江から上って来た船が着く河湊だった。

 

 

 

それで、淀川を挟んだ向かい同士の、男山・石清水八幡宮のある「八幡市」と「大山崎町」が、京の都への物資輸送を考える上で重要な拠点になっていた。

 

明治・大正時代までは、「八幡市」の男山の東側には大きな遊水池である〝巨椋池〟が広がっていて、その北側が京の都の外港の〝伏見の河港〟という位置関係になる。

 

極端な言い方をすれば、この「山崎の津」は〝イスタンブール〟であり、淀川から少し上流の宇治川にかけてが〝黒海〟、「淀」の城跡の辺りが〝クリミヤ半島〟といった感じである。

 

そう考えれば、現在のウクライナ情勢と絡めて、トルコの置かれている微妙な立場と、この「山崎の津」の持っている地政学的な重要性がとてもよく解る。

 

だからこそ、光秀はこの大山崎の地で秀吉を迎え撃った。山と川が接近し、平地というほどの広さもなく、西から引き返してきた秀吉の大軍は、ここの通過で苦労すると思うから。

 

 

 

だから秀吉も、天王山の山裾の高地にある「宝積寺(俗称・宝寺)」に陣取った。こうして、今は名神高速と京都縦貫道のジャンクションになっている地域を戦場に、決戦が行われた。

 

ただ午後4時から戦いが始まり、短期決戦で決着が着いた。あっという間のことで、〝天下分け目〟などという戦いではなかった。ゴングと同時に、秒速でKO勝ちというか。

 

これが世に言う「天王山の戦い」の真実。〝今日が天王山ですっ!〟とアナウンサーだけが絶叫して、観衆は置いてけぼりにされているようなもの。「エッ、終わり?」なわけ。

 

それとともに、中世以来、豊臣も徳川もこの地域を特別扱いとしたので、まち全体がとても潤ったという状況を、この資料館で勉強させてもらった。

 

 

 

その理由が、この町にある「離宮八幡宮」というお宮。ここは男山に「石清水八幡宮」が鎮座するのに先立ち、奈良・大安寺の僧・行教が、まずこの地に「宇佐八幡宮」から勧請した。

 

 

 

それが平安時代の初期の貞観元(859)年頃の話。「離宮八幡宮」という名前は、嵯峨天皇の「河陽離宮」の故地に社殿を作ったから、「離宮八幡」と呼ばれるようになった。

 

 

 

その後、この「離宮八幡宮」の〝神人(じにん)〟が、「荏胡麻油」を絞るための装置を工夫して、製造にイノベーションを起こした結果、この八幡宮が「油座」の総元締となった。

 

 

 

 

(歴史資料館にあった「油売りの図」のレリーフ)

 

さらにその後、今度は室町幕府の足利義満が、大山崎の町を「守護不入の地」と認めたので、それ以来、中世から明治に至るまで、神社領として大幅な自治権が認められてきた。

 

 

(八幡宮は「守護不入之所」と彫られている)

 

その結果、大山崎の町は油販売に掛かる権利料の収入があり、その上、神社領として自治権があったから、大いに潤うことになったということらしい。

 

ということで「大山崎町歴史資料館」を出て、目の前の西国街道を阪急「大山崎」駅を通り過ぎて、JR「山崎」駅方面に10分足らず歩けば、その「離宮八幡宮」に至る。

 

 

 

この神社の北側をJRの線路が通ることになったために、今では神社の敷地が大きく削られてしまったそうだが、それでも古社の面影を残す八幡様の本殿にまずはお参り。

 

 

 

この場所は、明治維新の直前(1864年)に長州藩が起こした「蛤御門の変」に際して、長州軍の進発の拠点となり、この神社から御所に向かって行った。でも、けっこう遠い。

 

 

 

 

その「蛤御門の変」の結果は、長州軍が薩摩・会津藩などの幕府軍に敗走したため、この神社も戦火で焼けてしまったというが、惣門と東門だけは焼け残り昔のままの姿だという。

 

 

 

 

帰りはJR「山崎」駅から乗車して帰宅したが、この駅のプラットホームからは、淀川を挟んだ対岸の男山が、すぐそこにあるようによく見えていた。