等伯の大涅槃図が公開されているので | がいちのぶろぐ

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昨日は朝から雨模様で、どこにも出掛けなかったけれど、私の仕事(?)部屋の細々とした片付けものや、関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体の作業に時間を取られていた。

 

そのために、結局はブログを書く気分にならなかった、という言い訳から。そして今日は、朝はサーっと陽光が射していたけれど、10時ごろからはすっかり曇り空になってしまった。

 

とは言っても、まず雨は降らないだろうということで、午前中に「春季特別寺宝展」として「大涅槃図開帳」中の、西陣地域にある本法寺を訪れていた。

 

 

 

このお寺は、「本阿弥清信が日親上人を開基に創建した日蓮宗の本山」だと、駒札に書かれている。それでこのお寺は本阿弥家の菩提寺となり、本阿弥光悦が作庭した庭などもある。

 

 

 

ただし、この日親上人という御仁が〝大変な人〟だったようだ。「立正治国論」といういわば政治論を著して、当時の室町幕府第6代将軍・足利義教の逆鱗に触れたというのだ。

 

それで投獄をされた挙句に、焼けた鍋を被らされたので、「鍋かむり日親」と言われたという。今日も、特別展の中で、その〝鍋のカケラ〟という展示品も並べられていた。

 

それでも自説を曲げずにいたというのだから、信心がもたらす心の奥深さを感じてしまう。それはそれとして、「大涅槃図開帳」はなかなか見応えがあった。

 

 

 

江戸初期の画家・長谷川等伯が能登の七尾から、菩提寺の縁でこの本法寺にやって来て、ここで絵の修行を続けていたそうだ。そして書き上げたのが10×6mという「大涅槃図」。

 

 

 

階までぶち抜きの展示室に、重いからとワイヤーで吊り下げられた涅槃図が架けられていて、まずは1階で鑑賞してから、2階へ上って、そこで上部の図像を鑑賞する。

 

こうしないと、1階から見上げているだけでは、上部の細かい部分が見えない。むしろ2階から見下ろした方が、下部の図像にも何だか迫力があった。

 

 

 

その後は、本阿弥光悦が設計したという「三巴の庭」を見た。国の名勝に指定されているが、経年変化によって、巴形に配置され盛り上げられた築山が、明確な巴形には見えなかった。

 

 

 

 

それよりも、少し苔むした光悦遺愛の蹲踞(つくばい)は、とても趣があって良かった。この本法寺も、焼けて移転したりして、江戸時代にどうにか落ち着いたらしい。

 

 

 

(「三巴の庭」の端にある「光悦垣」)

 

寺務所の前にあった細い桜の木は、きれいに花が開いていた。本法寺を出てからは、南隣にある「裏千家」の「茶道資料館」に立ち寄って、展示されていた陶磁器類の数々を見た。

 

 

 

私は〝この方面にも〟全く疎いので、〝どうですか、良いでしょう〟という具合に陶磁器を展示されても、〝ホェ~〟という程度の感想しか出てこない情けない人間だ。

 

 

 

それよりも、裏千家にある茶室「又隠(ゆういん)」が、この資料館の中に原寸大で再現されていたのがとても興味深かった。

 

裏千家は、「今日庵」という茶室の名前でも知られているが、その「今日庵」と立ち並ぶように作られている茶室ということだった。

 

(裏千家の表門)

 

そんなことで、茶道資料館を出た時には、もうお昼を回っていた。我が家から地理的には遠くないけれど、無作法な私にとって、精神的には遠く離れた、距離のある場所だった。