京の町中には歴史の跡がひっそりと | がいちのぶろぐ

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早いもので今日からは2月になった。如月(きさらぎ)であり、着更着(きさらぎ)なのである。寒いから〝重ね着〟が必要な季節だと、昔の人も教えてくれている。

 

だから今朝も寒かった。それでも金曜日から4日間も、家から一歩も出なかったから、今日は町中の散歩を兼ねて、税理士さんの事務所に行ってきた。

 

町中にも観光的に有名ということではないけれど、一風変わった面白い寺社はあるので、それらを巡りながら税理士事務所のあるビルへ向かった。

 

京都の町は、非常に大雑把な言い方をすれば、〝西陣地区〟がある上京区一帯はいわば西陣織で栄えた街であり、その南に位置する中京区は室町の着物・白生地の問屋街になる。

 

 

 

さらに中京区はもう一つ、染め物の街、友禅染の街という顔も持っている。白生地の問屋さんがあって、そこから仕入れた生地に絵を描いて染料で染める。

 

ということで、六角通の堀川を東に入ったところから、袋小路になっている細い道をたどると「越後神社」という小さな祠に出会う。

 

 

 

この場所には杉若越後守という人が住んでいたから、それが町名になり、そこにある祠だから越後神社となったらしい。消えかかった駒札には、そう書かれている。

 

 

 

それよりも、この場所は明治期の名工だった「広瀬治助(備治)翁」が住んでいた町として知られている、というのだ。と言っても、その名前も普通は知られていない。

 

 

 

この人物が「写し友禅」という技法を開発し、この地に染工場を作った。これが画期的な技法だったので、友禅染の大量生産が可能になったという。

 

 

 

「そのお陰で今日の友禅染普及の基礎を築いた」と、かすれているけれど駒札に書かれた文字が読み取れる。だから、関係者からは「友禅神社」とも呼ばれている。

 

これが実に小さな祠2つとお地蔵さんがあり、何だか危なっかしい鳥居が立っているだけという神社なのだ。凄いものが、ひっそりとある辺りはあまりに奥ゆかし過ぎる。

 

 

 

そしてこの越後神社の南東側一帯は、じつは〝あの〟本能寺があった場所。1415年に本応寺として少し離れた場所に開かれたが、紆余曲折があって最後は1582年に焼失した。

 

 

 

この地に再建を図ったけれど、豊臣秀吉が現在の寺町御池の市役所の向かい側、その頃は鴨川の河原だった場所に移転させたという。この町内の人たちは腹が立っただろうと思う。

 

実は、この焼失した本能寺の跡地には、その名も本能小学校が建てられていた。今は廃校になって、跡が大型の福祉施設となっている。

 

 

 

ご近所のお家には、壁に本能寺寺宝展のポスターが貼ってあった。今もお付き合いがあるのだろう。それにこの周辺は、越後神社に書かれていたように、染工場なども多くあった。

 

 

 

これももうすっかり姿を消して、今では小さなビルや住宅がひしめく市街地になっている。それでもこの地域の一角で、今も染工場を続けているところもある。

 

 

 

「京の黒染屋」と名乗って営業を続けている。ここの会社の片隅にある井戸は「柳の水」と言われて、千利休が愛した水と伝えられている。

 

 

 

 

また、先ほどの本能寺跡のすぐ横には、「空也堂」として知られている極楽院という小さなお寺もある。

 

 

 

このお寺は、千年まえに「市聖(いちのひじり)」として知られた「空也上人」が開いた、「市中道場」となっていた。

 

 

 

美術の教科書に載っている、口から6体の小さな仏様が出ているシュールな彫刻の、やせ細った乞食僧のような人物こそが、このお寺にゆかりの空也上人である。

 

 

 

普段は入れないお寺だが、11月の開山忌には今も〝歓喜踊躍念仏〟が奉修されるという。あの空也上人の彫像がある六波羅蜜寺でも、年末に〝歓喜踊躍念仏〟が行われている。

 

このように、何とも言えないほど日本史のあれこれを抱えた街を、独りうろうろと歩き回った後で、そこから遠くない、いつもお世話になっている税理士の方の事務所に向かった。