昼ご飯を食べすぎたから紅葉見物!? | がいちのぶろぐ

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今日の午前中は、近くの医院で〝普通〟のインフルエンザワクチンの接種を受けた後、昼ご飯に京都市の〝飲食店応援プラン〟で入手した50%支援チケットを使って外食した。

 

この応援プランが知られていなかったのか、参加店が少なくて人気がなかったのか、ネット申し込みの時点では〝抽選〟となっていたのに、抽選発表の日にあっさり当選通知が送られてきた。

 

でまあ5千円の振り込みで、1万円分のチケットを手に入れていた。先日は京都ホテルオークラのパン屋さんで、2,500円ほどパンを買って2,000円券を使い、結果として1,000円分は得をした。

 

そしで今日は、京大病院のすぐ前にある「はふう」聖護院店というレストランで、ハンバーグ定食を家人と2人で食べて、3,000円券を使って1,500円分がメリットになった。

 

 

 

チケットはまだ2,000円券と3,000円券の2枚が残っているから、あと2回、ちょっとした贅沢を楽しめそうだ。ということで、やや食べ過ぎたので、食後は腹ごなしの散歩となった。

 

このレストランは〝聖護院店〟と付いている。〝聖護院〟と聞けば、修学旅行のお土産に買った「聖護院八つ橋」を思い出す、という方もおられるかも知れない。

 

まさに「はふう」聖護院店は〝聖護院八つ橋〟本店のすぐお隣にある。しかも斜め向かいは、山伏さんの修験道の総本山「聖護院」というお寺。

 

このお寺は、かつて御所が火事になった時に、時の天皇がここへ仮住まいをしていたこともあったので、聖護院御所と呼ばれたこともあるという由緒正しい門跡寺院。

 

 

 

この聖護院の東隣には、塔頭の「積善院凖提堂」という小さなお寺がある。この塔頭の前の駒札には、ここの〝いわれ〟が盛り沢山にいっぱい書いてあった。

 

 

 

その中でも面白いのが、「人食い地蔵」を祀るという言葉。さらに、「お俊伝兵衛恋情塚」が建てられた、とも書いてある。

 

 

 

駒札によれば、このあたり一帯がまだ「聖護院の森」だった頃、そこにあった石仏が「崇徳院地蔵」と呼ばれて、庶民の信仰を集めていたという。

 

崇徳院とはいったい誰なのか。12世紀の半ば、鳥羽天皇が上皇になった時に、いったんは天皇になったのが崇徳天皇。しかし、しばらくして鳥羽上皇によって、その座を取り替えられる。

 

近衛天皇が即位し、崇徳天皇はまだ若者なのに、無理やり上皇にされてしまう。近衛天皇が夭逝すると、その後は後白河天皇が継ぐ。鳥羽上皇によって崇徳ラインは徹底的に干されることに。

 

こうしたことがあって、鳥羽法皇が崩御した時に、崇徳上皇はこれがチャンスとばかりブチ切れる。その結果、後白河天皇との間に、平安京が始まって以来という京の街での戦いが始まる。

 

これが「保元の乱」(1156年)と呼ばれる戦いだった。その時、崇徳上皇は「聖護院の森」にあった〝院の御所〟にいた。一方、攻め寄せてきた後白河天皇方には、あの平清盛がいた。

 

戦いはわずか数時間でケリがつく。崇徳上皇側が敗れ去り、崇徳上皇は讃岐(香川県)に流されてしまった。日本史的には、この戦いを境に平家や源氏といった〝武士〟が台頭することになる。

 

一方で敗れた崇徳上皇は、讃岐の地で怨みを抱きながら亡くなる。これはもう、〝怨霊〟になるしかないっ!という感じ。そんな崇徳上皇だが、庶民はこの〝怨霊〟をお祀りして負けた方に肩入れをする。

 

 

それで「聖護院の森」に「崇徳院地蔵」ができるし、それがこの積善院に引き取られ、ということになった。その「すとくいん地蔵」がいつしか訛って、「しとくい地蔵」から「ひとくい地蔵」に!!!

 

 

 

そして今日、私の目の前には1mほどの石仏「人食い地蔵」が立っていたわけだ。その上、お隣には「お俊・伝兵衛恋情塚」も立てられていた。

 

 

 

こちらは「京都観光NAVI」によれば、「1738年(元文3)釜座三条の呉服商井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の抱え遊女お俊が聖護院の森で心中した事件」にちなむ石碑だそう。

 

 

 

この事件は江戸時代に歌舞伎に仕立てられて有名になり、結果的に、中村鴈治郎らによって「1952年(昭和27)に聖護院の森に有った積善院に建立」されたそうだ。

 

ただし、歌舞伎に仕立てた作者も、近松門左衛門という説もあれば、別の作者だという説もあったりして、定説があるのかないのか私は知らない。

 

知らないけれど、そこはお芝居の話であるわけで、いろいろとあるのだろう。だが、心中事件は実際にあった話のようだ。〝だから何?〟と言われても困るけれど・・・

 

 

 

こんな小さなお寺にも、これだけの物語が詰まっている。だから、こうした〝行き当たりばったり〟のぶらぶら歩きが楽しいのかもしれない。

 

そんなことで聖護院の前から東の方を目指すと、黒谷・金戒光明寺に行き当たる。幕末には会津藩が京都の治安維持のため、守護職としてこの金戒光明寺に本拠を置いていた。

 

 

 

だから、勤王の志士との闘いで亡くなった会津藩士や、薩長連合軍と徳川幕府軍が戦った戊辰戦争で亡くなった会津藩士のお墓も、このお寺の墓地にある。

 

 

 

とは言え、今日は、そういう趣旨で金戒光明寺まで来たのではない。一つ目が腹ごなし、二つ目は紅葉見物だから、山門の回りの紅葉を眺めたら気分的にはもうこれで十分。

 

 

 

 

 

 

普段は入れない山門の上にも、秋の特別拝観で上ることができたけれど、〝マッ、いいか〟であっさりとパス。紅葉を見終われば、〝今日は、これくらいにしておこう〟という感じ。

 

 

 

 

散歩というほどの距離を歩いたわけではないけれど、日ごろの食べる量と比べて、昼ご飯のボリュームが多かったから、金戒光明寺への坂道と石段で多少はお腹が楽になったような気がした。