紅葉狩りに出掛けたんだけど | がいちのぶろぐ

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今日の午前中は、洛北・三宅八幡にある「蓮華寺」まで紅葉狩りに出掛けていた。京都バスを「八幡前」で下車したのが10時40分くらい。

 

大原・三千院方面に行く京都バスは満員だったが、私が乗車した岩倉行きは空いていた。バスを降りて、先ずはバス停の真ん前にある三宅八幡にお参り。

 

お宮はともかく、境内の一隅にある噴水は周囲の木々の紅葉が進み、今日の好天に映えて気持ちが良い。

 

 

 

ここから細い道をブラブラと歩き始めると、「三明院」という小さなお寺がある。山門をくぐって石段を上ると、三重塔が周りを紅葉に取り巻かれていた。

 

 

 

本堂のすぐ前の手水鉢には、可愛い花が浮かべてある。そこに小さな紅葉の落ち葉が、ハラハラという感じで舞い落ちていた。これもまた良い感じだ。

 

 

 

三重塔はちょっとした崖の上に建てられていて、その周りをぐるりと回れる。本堂と反対側に回り込むと、三宅の集落が見晴らせる。高野川に沿って、家々が寄り添っている。

 

 

 

 

この三明院からものの10分も歩けば、「蓮華寺」の山門の前に至る。三明院は指折って数えられるほどの人影だったが、こちらはさすがに山門の辺りから写真を撮る人で賑わっていた。

 

 

 

 

小さな方丈に上がると、紅葉した木々に抱かれた池のある庭園が目の前にあった。方丈の部屋の柱が額縁になり、仕切られた庭がまるで絵画のように見える。

 

 

 

 

最近は紅葉の穴場として知られてきたので、庭園に臨んだ方丈は30人前後が座って庭を眺めていた。どうにか空いたところに座って、私もしばらく庭園を眺めていた。

 

 

 

庭園の奥に本堂があり、方丈側から敷板が渡されているので、用意されていたスリッパを履いて本堂へ向かう。堂内にはご本尊の阿弥陀様と、古い厨子が2つ安置されていた。

 

頭を下げて形ばかりのお参りをし、板敷を通って方丈へ戻る。この庭は、詩仙堂の石川丈山が作庭したらしい。池には、そばを流れる高野川の水を引き入れているそうだ。

 

 

 

蓮華寺を出て、すぐ北隣にある「崇道神社」に向かう。この神社は、駒札にあるように「早良親王」が祀られている。

 

 

 

 

この「早良親王」は、平安京遷都を行った桓武天皇の実の弟だが、桓武天皇の最初の「長岡京」遷都に際して、側近の藤原種継が暗殺された事件の首謀者の疑いで逮捕された。

 

早良親王は無実を訴えたがその願いは届かず、淡路へ配流されるまで飲食を断って、鬼の形相となりながら自死を選んだ。

 

 

 

その後、桓武天皇の母親であり、早良親王にとっても母である高野新笠や、皇后の藤原乙牟漏などが相次いで亡くなるという事態になる。

 

これはもう間違いなく、早良親王の〝怨霊〟による祟りということになる。こうなれば桓武天皇は縁起が悪くなった長岡京をあきらめ、改めて平安京への遷都を企てることになる。

 

そして早良親王の怒りを鎮めるために、淡路にあった親王の墓に勅使を送って、早良親王に「崇道天皇」という尊号を追贈する。

 

 

 

それでも桓武天皇の恐怖は去らなかったから、怒れる御霊を鎮めるため、延暦19(800)年には、比叡山の麓となるこの地に「崇道神社」を建立してお祀りをした。

 

だからこの神社に祀られている神は、前の道路に立っていた幟にあるような「上高野(かみたかの)の氏神さん」などという、〝お気楽〟な神様ではない。

 

 

 

本殿も飾りっ気のない白木の社殿で、なんとなく〝らしい〟雰囲気をたたえていた。私も手を合わせてお参りはしたが、何かをお願いするというよりも、なんだか祈りを捧げたような気になった。

 

 

 

そういう神社だが、また小野妹子の子・小野毛人(けみし)の墓も、この崇道神社のさらに山上にあるという。こちらは案内があったけれど、まったくの山道でとても上る気にはなれなかった。

 

 

 

 

それでお墓に続く道のところに、崇道神社の摂社として小野神社という小さな祠が祀られていた。

 

 

 

 

今日は、三宅八幡から三明院、蓮華寺と回って、最後に崇道神社で散歩を終えたけれど、少しだけ、何だかなぁという気分もある。紅葉狩りというには、最後が重すぎたようにも思う。

 

大原・三千院方面から戻ってきたバスで帰宅したが、やはり大原から市内行きのバスだけあって、まだやっと正午ごろだったけれど、市内へ戻る人で満員の混みようだった。