町中散歩に出掛けた続編を | がいちのぶろぐ

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昨日の午前中は、京都市内のいわば真ん中に存在していた、何らかの史跡を訪ね歩いていた。それで訪ねた先の報告として、前半部分を書き留めておいた。

 

今日はその続きを書いて置こうと思う。昨日に訪ねたのは次のようなコースだった。

 

我が家-(バス)→(堀川下長者町)伊藤仁斎旧宅(古義堂)-(徒歩)→鵺大明神(二条公園内)-(バス)→(堀川五条)佐女牛井跡石碑→瑞雲院→本圀寺跡石碑-(バス)→五条大橋(昔の五条橋の橋脚)-(徒歩)→朝日神明宮-(河原町五条)-(バス)→帰宅

 

それで「伊藤仁斎旧宅」から始まって、「鵺(ぬえ)大明神」、「佐女牛井(さめぐい)」、「本圀寺跡石碑」という順に、旧跡めぐりを説明しておいた。

 

そこで順番が少し入れかわったけれど、「瑞雲院」のお話しから。〝堀川五条〟の交差点は、第二次大戦の時に疎開道路として誕生した、多分京都市内で最もだだっ広い交差点。

 

 

 

交わる双方の道路がいずれも8車線はあろうかという広さだから、幼児や高齢者など足の弱い人は簡単には信号を渡りきれない恐れが十分にある。だから、4本の歩道橋が設置されている。

 

どこかで考え方が間違っていると思う。渡りきれないのなら、青信号の時間を長くすれば済む問題なのだが、かつて自動車の通行が大手を振ってまかり通っていた時代には発想が逆だった。

 

人間に不便を強いてでも、自動車優先を貫いてきた。だから、〝人間は階段を上り下りしなさい〟ということになる。ということが、この堀川五条交差点では痛いほどよくわかる。

 

そこで「佐女牛井」の石碑を見た後、「瑞雲院」に行くために五条通をまたいで、堀川通を北へ行かないといけない。だから、高い歩道橋を〝ヒー、ハー〟と上がって下る。

 

 

 

下った後は、交差点の北西角にある大きなビルの裏手となる方向に、細い通りをすこしだけ北に行く。そこに、さほど大きくないお寺がビジネス街に埋もれるように存在している。

 

「瑞雲院」は山門に竹の棒が渡されていて、中に入れない。このお寺は、あることで京都の6ヵ寺の一つに数えられている。それは「血天井」があること。何とも〝オドロオドロ〟した言葉だが。

 

 

 

関ヶ原の戦いの前段階に、伏見城に立て籠もる德川家康の家来の鳥居元忠と、攻め寄せる石田三成率いる軍勢の間で戦われた攻城戦。もちろん多勢に無勢で、鳥居勢は覚悟の全滅をする。

 

最後は伏見城で、鳥居勢の残った全員が自害するのだが、この時に流れた血の着いた廊下板は、その後、徳川家とゆかりのあるお寺で〝天井板〟として使われた。

 

こうしたお寺が、京都市内の養源院をはじめ5ヵ寺と宇治市の興聖寺の6カ所ある。その中の一つが、この「瑞雲院」ということになる。だから、それだけでも拝観の値打ちはあると思うのだが。

 

さらにもう一つ、このお寺の墓地にはある有名な武将が眠っている。それは小早川秀秋。ピンとくる方は、すぐにピンと来ると思う。なぜ血天井がここにあるのかが。

 

 

 

そう、関ヶ原の戦いで、石田三成の軍の一隊として陣を敷いていたが、戦いの途中で德川家康の軍に寝返って、一挙に戦局に変化をもたらした、あの小早川秀秋である。

 

歴史に『たら・れば』は無いけれど、もし小早川秀秋が寝返っていなかったなら、日本史は全面的な書き換えになっていたかもしれない。その代り、小早川秀秋は21歳の若さでこの世を去った。

 

秀秋が生前に帰依していたのは、「本圀寺」の日求上人だった。この「瑞雲院」がある場所も、かつては「本圀寺」の一隅になる。だから秀秋の遺骨は、ここに葬られることになった。

 

德川家康にしてみれば、小早川秀秋という存在が無ければ、関ヶ原の戦いがどうなっていたかもわからない。だからこそ、伏見城の遺構である〝血天井〟がここにもあるということになる。

 

長くなったけれど、堀川五条からバスに乗って河原町五条へ。すぐそこに五条大橋が見えている。あの弁慶と牛若丸の童謡で有名。だから二人の可愛い石像も、橋のたもとに置かれている。

 

ただし、現在の五条通は豊臣秀吉が付け替えた。同時に五条橋も架け替えた。それまでは、今の〝松原通〟が五条通だったし、〝松原橋〟こそが五条橋だった。ということは・・・。

 

 

 

そんなことは、今となってはどちらでもいいことなので。この五条大橋のたもとにある小さな公園には、大きな丸い石柱が立てられている。しかも何か文字も彫られている。

 

随分と読みにくくなっているけれど、確かに「天正」という文字が読める。これは、秀吉が五条橋を架け替えた時に使われていた橋脚。だから400年余り前のものということになる。

 

 

 

それ以上に、この公園がある鴨川辺りから河原町五条、さらにその周囲一帯は、源氏物語の主人公・光源氏のモデルとされる源融の「河原院」があった場所とされている。

 

だから河原町五条を少し西へ行った場所には、今も〝塩竈町〟という地名が残る。これは源融が、大坂の海から海水を運ばせて、塩を焼く竈(かまど)を作っていたからという伝説から。

 

この辺りは、今では京都一の繁華街・四条河原町に近い繁華な場所だけど、河原町すなわち暴れ川である鴨川の河原だった。

 

 

(河原町五条バス停で見かけた女性/卒業式シーズンではないが)

 

その河原町五条の交差点の北西すぐのところに、「朝日神明宮」というお宮がある。いや、宮というより祠といった方が良いくらいのものだが。

 

 

 

お宮の前の駒札によれば、このお宮は現在の亀岡市から1572年にこの地に遷って来たということだ。そして広大な神域を持ち、周囲の森が「幸神(さいのかみ)の森」と呼ばれていたらしい。

 

 

 

 

今では、都心のど真ん中。鳥居の隣りにはコインパーキングがあったり、周りを高いビルに囲まれていたりという状況だが。そして摂社・末社も、今ではお宮の裏手に「猿田彦社」があるだけ。

 

 

 

それでも猿田彦社の横手に一本だけ高い木が残り、ひっそりと神社の森を主張している。その健気さが何とも言えない気になる。猿田彦社には、赤ちゃん猿を抱いた親猿の石像も。

 

 

 

 

ということで、昨日の〝町中で、気になっているところ〟散歩は終わった。何とも言えない気だるいような疲労感はあったけれど、よく歩いた散歩だった。

 

 

 

町の真ん中というべき場所に、それもほとんど何の主張もせずに、歴史を抱え込んだままで居続けている存在。そのこと自体が、何だか気になって仕方がない。

 

そんな気分から、町中散歩を始めている。まだまだ行きたい場所は数多くあると思う。