この国の地形は大雨にはまったく不向きで | がいちのぶろぐ

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今日の病院の検査と診察・点滴治療は、とてもスムーズに進行し、朝10時前に家を出て、結果的に午後3時半には家に帰り着いていた。それでも、かなり長いと言えるけれど。

 

昨日の午後に雨が降り出して、昨夜からは止むことなく降り続いている。島根県東部から鳥取県西部にかけた一帯は、大雨による警報や避難命令なども頻発されている。

 

山陰地方には、線状降水帯ができているというニュースも流れているが、その降水帯の東の端っこが、京都から滋賀のあたりまで伸びているようだ。

 

 

(今日の夕方の雨雲の状況)

 

だから今朝、家を出た時も相当に強い雨降りだったけれど、それから先ほどまでまったく降り止む気配などもなく強い雨が降り続いていた。もちろん大雨警報が出されている。

 

梅雨の末期には、最近は線状降水帯などと名付けられた、梅雨前線の真下に当たって強い雨が降り続く地域ができてしまう。その辺りでは、当然災害が発生しやすいことになる。

 

これまでも、九州北部の豪雨災害だとか、岡山県の豪雨災害だとか、毎年こうした状況の下で、西日本のどこかが豪雨による災害で苦しめられてきた。

 

熱海市の土砂崩れは、大規模な災害になってしまった。原因はいろいろと言われているけれど、残土処分のために積み上げられた土砂が、大雨によって流出したということらしい。

 

日本全国至る所で、工事などから発生した残土が「盛り土」という形で積み上げられている。こうした残土処分ということ自体は、いたし方がないことだと思う。

 

工事から発生する残土を、どこかに埋めることで工事も成り立つ。ただその処分場所が、山間地が多いというこの国の地形的な特性から、山間の谷を埋める形になることも多い。

 

さらに、これまでの想定を超える短時間の降雨量によって、埋め立てられていた残土が、地山から剥がれるように割れ始め、それが谷の下流めがけて土石流を引き起こす。

 

今回の熱海市の土砂崩れは、ある意味この図式通りの展開になってしまった。こんなことは、日本中の山間地の残土処分が行われた場所では、どこで起きても不思議ではない。

 

ただ土砂崩れが起きて被害が出てしまえば、人災ということになる。けれど、では「もって他山の石とすべし」と言われても、〝今さらどうしろというのだ〟という話になる。

 

人里を遠く離れた山奥の谷に埋めるのは、コストが高くなって合理性に欠けるという理由で採用されない。結局は、土木工事で地面を掘削するからいけない、と言うしかない。

 

そんなことはあり得ない話だ。道路工事やトンネル工事、宅地造成や橋の架け替えなど、それぞれの工事は私たちの生活上の必要性から生じている可能性が高い。

 

そこで出てしまった残土は、処分できる場所が限られているからこそ、特定の場所に集中して埋め立てられてしまった、ということでもある。

 

かつては田んぼに穴を掘って、そこに残土を埋めて、その上に土を被せてまた田んぼとして使う、ということも行われてきた。その当時は、面積が狭ければ届け出も不要だった。

 

そういう荒っぽい方法で処分するといった状態は、さすがになくなったけれど、やはりこの国で残土を処分する場合、地形的な特徴は急傾斜の山地が多いということが挙げられる。

 

むしろ、関東平野だとか濃尾平野、石狩平野などと、子どもの頃から社会の時間に地図を見て平野の名前を覚えさせられた。そしてそれらは、みんな大きな川の下流域だった。

 

山間部に大雨が降ると、山に保水しきれなかった雨水が川を流れ下りながら、どんどんと水かさが増して行き、今度は下流部で洪水を引き起こすことになる。

 

山間地での土砂災害に下流部の洪水と、どちらを向いても助からないのが、この国の地形的な成り立ちだ。だからこそ『治山治水』は、古くから〝政治の要諦〟だった。

 

今はその政治が、〝混乱と無責任〟に覆い尽くされている感じがする。この先まだ大雨が続くようなら、もう国政には頼らず、地域ごとに知事の政治力に頼るしかないだろう。

 

残念ながら現状の国政は、まったく国民の方を向いていないことだけは明らかだから。