新熊野神社へお参りに | がいちのぶろぐ

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今日は、何日ぶりかの晴天になった。この間、ずっと家に閉じ籠ったままだったから、今日はせめて散歩にでも、と思って午前中は出掛けていた。実に9日ぶりの外出だった。

 

とは言っても、そんなに大層な散歩でもない。実はこの間、気にはなっていたけれど、なかなか行くことができなかった新熊野(いまくまの)神社へ出掛けたのだ。

 

 

 

現在は何ということもない、さして広くもない町中の神社である。ただしこの神社の謂われは凄い。そこに関わっている人たちの名前は、日本史のビッグネームばかりである。

 

 

 

まずこの神社は、〝熊野詣で〟を好んだ後白河上皇が、院の御所だった「法住寺殿」の池を配した豪壮な邸の一角に紀州・熊野権現を勧請し、鎮守社として1160年に創建された。

 

 

 

室町時代には、大和猿楽の観阿弥・世阿弥親子が、1374年にこの神社の境内で猿楽を上演し、それを3代将軍・足利義満が見たことから、義満の庇護を受けるようになった。

 

 

 

それ以後、京都の武家さらには公家にも支援されるようになり、ついには世阿弥が猿楽を能楽として大成させた、という歴史を持っている。

 

だから、現在はさして広くない境内の片隅に、能楽と関連した石碑などが置かれていて、「能」と書かれた石碑の横の碑文は、中世史の大家だった林屋辰三郎先生が書いておられた。

 

 

 

 

 

歴史に〝たら・れば〟は無いけれど、もし後白河上皇が〝熊野詣で〟を好まなかったら、この神社はなかったかもしれない。

 

そうであれば、観阿弥・世阿弥はこの神社で猿楽を上演せず、だからひょっとしたら足利義満にその猿楽を見てもらえなかったかもしれない。

 

そうなれば、今日のような能・狂言は無かったかもしれない。または、今とは全く異なったものになっていたかもしれない。そう考えれば、歴史の偶然性は面白いものだと思う。

 

 

 

その新熊野神社の現在の場所は、有名な三十三間堂(蓮華王院)とJR東海道線を隔てた南側にあり、訪れる人もまばらなひっそりとした佇まいである。

 

 

 

実は、この新熊野神社を特徴づけているもう一つのものが、境内にある「大樟」。これは社伝では「後白河上皇お手植え」とされている。今は、京都市指定の天然記念物である。

 

 

 

幹の直径が、目通しで3mほどもあろうかという大木。この大木自体が〝大樟大権現〟として神格化されている。

 

 

 

 

それにしてもこの樟は、すぐ周りにまで上がれるようになっているのだが、これだけ大木だと、近付いてみてもどうしたらいいかわからない。

 

何せ大人3人がかりでも、幹を回りきらないだろうから。それもそうだろう。社伝の通りだとすれば、樹齢は850年にもなろうかということだから。

 

 

 

 

また、熊野権現を勧請しているので、本殿の左右には〝上の社・中の社・下の社・若宮〟の祠も並んでおり、中でも〝上の社〟の祠は珍しい「平野造(比翼春日造)」になっている。

 

 

 

これは、平野神社(京都市北区)の本殿に用いられている形式で、〝切妻造妻入り〟という形式の〝春日造〟を横に並べて、相の間でつないだ形になっている。

 

 

 

また「京の熊野古道」と銘打って、本殿の背後に様々な神仏の木彫などが並んでいる中に、「後白河法皇坐像」という高さ30cmほどの像も置かれていた。

 

 

 

 

アクリル板の中に入っておられるので、写真撮影をしても私の腕前と旧式のスマホでは、なかなか思うようにお姿を納めることはできなかったのが残念だが。

 

帰路には、バスが八坂神社の前の「祇園」バス停で乗り継ぎだったので、四条通から少し南にある「亀屋清永」さんで「清浄歓喜団」という、奈良時代に我が国に伝わったという唐菓子を買い求めた。

 

 

 

 

 

まあ今となれば、普通に固めの揚げ饅頭なのだが、1600円也なので、家人ともども心していただいた。苺のショートケーキの方が、家人の受けはきっと良かったと思うけれど。

 

 

 

それにしても久しぶりの外出で、少しだけだが心のどこかにあった〝鬱屈〟が減ったように感じている。