生物とは何かを定義する | がいちのぶろぐ

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およそ1年前に配信された「ダイヤモンド・オンライン」誌に掲載されていた素晴らしい文章があった。その概要を引用して、このブログで紹介させてもらったことがあった。

 

更科 功(さらしな・いさお)氏という、分子古生物学を専門とする方の「若い読者に贈る美しい生物学講義」という書物を下敷きに、WEB限定の「マンガでわかる『生物を定義する、たった3つの条件』」と題された記事の最後に書かれていた文章だった。

 

記事の最後の部分で「著者より」と題して、マンガの解説のように書かれていたものだが、その部分のタイトルは「くつろいで受けられる生物学講義」となっていた。

 

そこで〝生物とは何だろうか〟という根源的な問い掛けと、それに対する更科氏の考えが簡潔に述べられていた。この文章が素晴らしかった。

 

この文章では、最初は怠け者の農夫がロボットに農作業を行わせることから始まり、作り出されたロボットはどんどん進化して、自分でコピーのロボットを作りだすようになった。

 

 

 

そうして自分で分身を作り出すようになったロボットは、徐々に自然淘汰された結果、ある種の能力を持ったロボットだけが生き残るようになっていった。

 

そしてこのロボットは、怠け者の農夫ではもはや制御できなくなっていた、という〝たとえ話〟を書いておられた。

 

この時、この自然淘汰を生き延びたロボットは「生物」なのかという、更科氏からの問い掛けである。以下、更科氏が書かれた文章を中心に話を進める。

 

「これまでは、生物とはどういうものかを考えるときに、物質的な側面から考えることが多かった」という。

 

その理由は、「地球の生物の体のなかでは、いつも物質やエネルギーが流れている。この流れを代謝というが、これを生物の定義の一つとする」ことが多かったから。

 

地球上の存在であることを前提とした場合、〝生物〟とは体内で〝エネルギーや物質の循環〟が行われている、すなわち〝代謝〟によって成り立っていることを意味していた。

 

だから「地球の常識から言えば、金属でできたロボットは生物ではない」ということになる。金属でできたロボットは、地球の常識である体内での〝物質循環〟が行われていない。

 

 

 

食物を食べて排泄をし、古い細胞が死滅して新しい細胞ができる、という物質循環は、金属製のロボットの場合には当てはまらない。

 

だが、「それは宇宙の常識とは違うのではないだろうか」と更科氏は問う。地球上に住んでいる人間だけが考えている〝常識〟は、宇宙全体としてみれば特殊なことかも知れない、ということだ。

 

そこで更科氏は、「宇宙全体で生物を定義できるものがあるかどうかわからないが、もしあるとすれば、それは『自然選択』だろう」と述べられる。

 

宇宙という〝場〟で考えた場合、その〝場の自然〟に適応し、そこでの取捨選択による淘汰をくぐり抜け、生き延びる能力を持ち得たものが〝生物〟と言えるのではないか、と考える。

 

だから金属製のロボットが〝宇宙の自然〟に適応できるようになり、自らの力で淘汰を生き延びているのなら、それはもう〝生物〟と言えるのではないか、と言われるのだ。

 

もちろんその時点では、地球上に住む人間の力でそのロボットを破壊することは不可能になっている。そのロボットはすでに地球の〝人間の能力〟を上回り、自己修復力も再生力も持っている。

 

それゆえ、そのロボット自身が〝生物〟と呼ぶべき存在ということになる。つまり、「どんな形をしていようが、どんな物質でできていようが、どんな振る舞いをしようが、とにかく自然選択によって作られたものが生物」だということになる。

 

 

 

そうした考え方をベースにして、宇宙全体で〝生物〟を定義するとすれば、「それは『自然選択』だろう」という結論を示しておられた。

 

「生物は自然選択によって、周囲の環境に適するようになったもの」を言うのであり、「その環境の中で、なかなか消滅しないようになった」もの、すなわち「生き続けるようになったもの」だという。

 

結論として、「本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう」という、一見すれば〝循環論法〟のようにも思える言葉で結んでおられた。

 

素晴らしい文章、卓見だと思った。「生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはない」という言葉こそ、〝生物=生命〟とは何かを表現していると思う。

 

何だか、〝狐につままれた〟気分になるかもしれない。「生物は、生きるために生きている」と言われても、〝当たり前じゃないか〟と思ってしまいそうだ。

 

だが、「生きるよりも大切なことはない」と言われるように、生物=生命は生きるために存在している。

 

ただ私たちは、生物=生命が決して永遠に不滅なものではなく、〝エネルギー循環と物質循環〟、すなわち「代謝」によって支えられていると、〝地球の常識〟の中で捉えている。

 

それに対して、生物とは〝自然の選択の中で生き延びることができる存在〟だと考えるなら、今回の新型コロナウィルス騒動だって、人間が〝選択〟という〝試練〟を受けているに過ぎない。

 

ウィルスだって生き延びようとすれば、その宿主(自分が生き延びるために必要な環境)を求めて、動物や人間の身体を借用する必要があるし、現にそうしているに過ぎない。

 

ただしウィルスは借用している宿主を殺せば、それは同時に、自分も生き延びられない状況になることを意味している、という矛盾を抱えている。これがウィルスという存在だ。

 

これは人間の側から見るか、ウィルスの側から見るかという、お互いに生き延びるための方法論の違いの問題だ。ウィルスに身体を借りられた宿主は、結果的に死ぬかも知れない。

 

逆にウィルスの側から見れば、できる限り多くのウィルスをコピーして増殖し、それを多くの宿主に拡散させることによって、みずからの分身を生き延びさせることができる。

 

だから、ウィルスにとって「生きるために大切なこと」である、コピーの拡散=感染を大事にしなければならない。それが「生き続けること=コピーが存在すること」になるから。

 

こうした視点から考えるなら、環境破壊は人間がみずからの手で「生きるために大切なこと」を壊し、〝生き延びられない〟ようにするために努力をしている、と言えるだろう。

 

 

 

これも人間という生物が選択した「自然の選択」の一つだというのであれば、そこで行われていることは、生物=生命が「生きるために大切なこと」に反する〝愚かな努力〟だ。

 

更科氏が言われるように、「生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはない」という言葉の持つ重い意味を、もう一度思い返してみることも必要ではないか。