「問いを立てる」ことの難しさ | がいちのぶろぐ

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昨日のブログで、この間に買い溜めした本を読み始めているという話を書いた。それも、どの書物も面白すぎるから、困ってしまうということを書いた。

 

昨日のブログではほとんど触れなかった1冊を、今日は紹介しておきたいと思う。上野千鶴子さんの「情報生産者になる」(集英社新書13522018年)という本である。

 

 

 

ご存知の通り、上野さんは東京大学で社会学を教えておられた。それも、日本で「女性学」という新しい学問分野を切り開いた中の一人と言えるだろう。

 

私も上野さんの著作は、以前に何冊も読んでいる。それらはいずれも、「女性学」という分野を作り上げて行く過程で書かれた内容の著作だった。

 

 

 

それに対して今回の「情報生産者になる」という本は、まさに高等教育の過程で〝研究〟と取り組んだり、それを論文等で公開したりしようとする場合を前提に書かれている。

 

それは、目次を見ただけでもよくわかる。「Ⅰ 情報生産の前に」「Ⅱ 海図となる計画を作る」「Ⅲ 理論も方法も使い方次第」「Ⅳ 情報を収集し分析する」「Ⅴ アウトプットする」「Ⅵ 読者に届ける」という構成になっている。

 

そんな中でも「Ⅰ 情報生産の前に」という部分は、いわばこの本全体を貫いている〝理論武装〟というか、情報を生産するための〝心構え〟の話になっている。

 

極端に言えば、「Ⅱ 海図となる計画を作る」以降の内容は、〝情報を生産する〟という心構えに従って、どうすれば〝生産〟できるか、その具体的な方法論と言っても良いだろう。

 

だから「Ⅰ 情報生産の前に」という章で述べられている内容は、対象が研究者ということでなくても、情報とは何かを考える上で、深い意味を持っていると思った。

 

上野さんにとって〝研究〟とは、「まだ答えのない問いを立て、みずからその問いに答えなければならない」、すなわち「問いをきわめる」ことだと言われる。

 

次に「情報を生産する」ためには、「問いを立てることが肝心」で、「問いを立てるとは、現実をどんなふうに切り取ってみせるかという、切込みの鋭さと切り口の鮮やかさ」を言うと述べておられる。

 

しかも「問いを立てることは、いちばん難しいかも」しれない。なぜなら、「問いの解き方は教えることができても、問いの立て方は教えることができない」とも言われている。

 

だから上野さんはご自分が指導する学生に、「答えの出る問いを立てる」「手に負える問いを立てる」「データアクセスのある対象を選ぶ」と言ってきた、とも述べておられた。

 

つまり研究するとは、「まだ答えのない問い」を立て、その〝問い〟が導き出した「現実」を示すことによって、それまで誰からも提示されなかった「情報」が生まれる。

 

こうして生まれてきた「情報」に基づいて、みずからが〝答えのなかった問いに答えを与える作業〟を行うということではないだろうか。

 

情報生産者とは、今まで誰も与えることがなかった「情報」を、みずからの力で可視化して、人々に提示することを行う作業者、と言えるだろう。

 

そのためには、今まで誰も立てなかった「問い」を立てなければならない。それは「教えることもできない」し、とても難しい作業だと、上野さんも認めておられる。

 

これを受けてかどうかは知らないが、上野さんの本と同じちくま新書から、宮野公樹氏(京都大学準教授)が、「問いの立て方」(ちくま新書15512021)を出版されている。

 

 

 

これは買い込んだものの、まだ全く読めていない。さらに同系統の本に、安斎勇樹・塩瀬隆之「問いのデザイン」(学芸出版社、2020)というA5判300ページほどの本もある。

 

 

 

こちらはサブタイトルが「創造的対話のファシリテーション」と題されている。この本は私も徹底的に読み込んだ。

 

こちらでは「問う」という行為を、「日常の中で形成してきた認識の前提を揺さぶり、新たな関係性を編み直すための『創造的対話』を生み」出すためのきっかけと捉えている。

 

上野さんのように、「問いを立てる」ことによって、〝現実を切り取ってみせる〟という行為につながるという場合と、安斎氏のように「認識の前提を揺さぶり、『創造的対話』を生む」という〝グループワーク〟との違いはあるだろう。

 

しかし「問いを立てる」ことは、それまで個人の中にあった「認識」に何らかの刺激を与えることによって、新たな「現実」と出会うことになり、それが新たに「情報」として周囲に広がるという点では、同じようなところを見ているようにも思う。

 

それにしても、「問いを立てる」という作業は、とても難しい作業であることは間違いないようだ。