仕事を理解する上で「修業」は必要だと思う | がいちのぶろぐ

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以前から、しばしば「修業」ということが持っている意味について考えていた。それというのも、「○○アカデミー」といった名前の〝短期料理人養成学校〟が成立しているからである。

 

和食や寿司などの料理人・職人を目指そうとすれば、料理屋や寿司店に雇われて、最初は洗い場係という下働きから仕事が始まる。

 

そこから10年以上の時間をかけていろいろな経験を積みながら、親方・主人などの代わりが務まるところまで昇って行き、人によっては独立することもあると考えられてきた。

 

こうした10年以上にわたって店で働く時間が、料理人・職人になるためのいわゆる「修業期間」となっていた。これだけの時間が必要だと、雇う方も雇われる方も思っていた。

 

ところが、例えば「お客の前で握り寿司を握る」という行為を考えてみると、包丁を使って手際よく魚が捌けることと、捌いた魚を手の中で寿司飯と合わせる作業ができれば良い。

 

 

 

それ以外のことは、極端に言えば寿司職人としては不必要な作業である。洗い場で、下げられてきた食器類を洗うのは、それを専門に行う人を雇えばよいだけのことである。

 

寿司職人を目指す若くてやる気のある人を、一年ほども洗い場係として雇って、来る日も来る日も食器洗いをさせておくのは、若い人のやる気を削いでしまうかも知れない。

 

もっと言えば、安い給料で使うことができているから、なるべく長く修業という名の下働きをしてくれたら、コストパフォーマンスを考えればそれに越したことはない。

 

 

 

しかしそれは若い人にしてみれば、まさにブラック産業そのものになってしまう。そんなことを続けていれば、若い優秀な人が働きたいとは思わなくなる。

 

こうしたことを考えた人が、システムとして「寿司職人養成コース」を考え、授業内容を集中的に特化したら、やる気のある人なら短期間で〝それなり〟のレベルに達することは可能だと思う。

 

 

 

だったら、煮物・焼物・揚げ物など和食全般をこなせる料理人ということではなく、寿司職人という仕事に向けて集中的に養成するならば、短期の養成学校は成立するだろう。

 

つまり、今まで考えられてきた「修業期間」というようなものは、〝無駄な時間〟としてあっさりと斬り捨てられてしまうことになる。それもまた一つの考え方かもしれない。

 

そこで「修業とは何だろう」という、この文章の最初に掲げた疑問に行き当たるのだ。「修業」とは、何らかのことを行う「意味」を、自らに問いかけるための時間だと私は考える。

 

寿司店や和食店だけでなく、洋食であれ中華であれ、飲食店としてお客を迎える店において、食器を洗うという行為にはどういう「意味」があるのだろうか。

 

 

 

バーなどであれば、お客の前に出されるガラスのコップなどを、まったく曇りがないように毎日バーテンダーが磨き上げていることも、同じ意味を持っていると思う。

 

〇〇アカデミーといった形式で、寿司を握るというテクニックだけを教えるとすれば、洗い場で食器を洗う経験なしに、お客の前に立って職人として接客することも起こり得る。

 

この時、お客の前に出すお皿が少し汚れていたとすれば、この職人はどうするだろう。常識的に考えれば、きれいに洗われたお皿と交換してそれを使うだろう。

 

ではなぜ、食器が汚れていたのだろう。その店で分業的に洗い場係として雇われている人が、食器を洗うということの「意味」をあまり理解していなかったのかもしれない。

 

もしくは、最近のことだから「自動食器洗浄機」がイマイチきれいには洗えなかった、ということがあるかもしれない。

 

洗い場係を経験するということは、食器を洗うという行為がその店で行われている仕事の中で持つ「意味」を理解すること、だと思う。

 

この「意味」が理解できれば、それでもう洗い場係を卒業すればいいと思う。しかし、そこを一度も通らずに、単にテクニックとしての形式を整えるのであれば、それは短期間の養成コースでも可能になると思う。

 

 

 

お寿司屋さんに行けば、茶碗蒸しや赤だし、あら汁といったサイドメニューも、必ず注文を受けるだろう。茶碗蒸しに「巣」が入らないように蒸し上げるコツは、何度も経験しないと会得できないかも知れない。

 

本ものの寿司職人となるためには、こうした様々なことを経験し、そこにある「意味」を理解するという過程をくぐり抜けておかないと、お客の前で他の作業者へ指示すら出せないことになるような気がする。

 

形式を身に着けるだけではなく、一つずつの作業が持っている「意味」を理解すること、「形(かた)ー知(ち)」となって「かたち」が完成するのだと思う。

 

形式に知=認識=「意味」を付与することを学ぶ期間、それが「修業期間」ではないだろうか。

 

たとえどんな仕事であっても、形式を真似るだけでなく、そのことの持つ「意味=本質」を理解するために行う作業が「修業」だと思う。

 

今日は長々と屁理屈をこね回しているように思えるが、料理人・寿司職人と言った狭い分野だけでなく、仕事をするということの基本はそこにあるように思えるのだが。

 

だから「○○アカデミー」的な短期養成学校では、どうしても見落とされることがあるように思える。

 

10年などという長期もまた変かもしれないが、「意味」を理解する時間としての「修業」はあっても良いと思う。