寺町のお寺を駈け巡る | がいちのぶろぐ

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昨日はお手伝いをしている高校の「総合学習」で出掛けていた。あれやこれやで、結局ブログを書けなかった。

 

「総合学習」はクラス内での中間発表会だった。5つのグループがこれまで行ってきたことをまとめ、これからを展望してそれぞれに発表した。

 

 

(高校の校内の桜が赤く色づいていた)

 

使っている教室が英語のLL教室なので、今日がハロウィーンということで、この教室もアメリカ人の英会話の先生がカボチャをくりぬいた飾り付けをされて、ハロウィーン気分になっていた。

 

そんな中で各グループがそれぞれ前に立って中間発表し、それに対して残りのグループの生徒が、質問や感想をパソコンで書きこむというスタイルの発表会になった。

 

各グループとも発表の中味は、まだまだこれからということだったけれど、私は一通り発表が終わってから、各グループに私なりの感想を話して回った。

 

そして今日は絶好の秋晴れになった。私は朝から、我が家からそれほど遠くない〝寺町通り〟の北の端のあたりを自転車で一回りしてきた。

 

この一帯は寺町の名前の通り、豊臣秀吉が天下人になってから京の町の大改造を行い、市中にあった寺の多くを、鴨川に沿った京の町の東側一帯に集めた結果生まれた町である。

 

「寺町今出川」から北を目指してゆくと、枝垂れ桜がある「本満寺」というお寺があり、そこをさらに少し行くと、織田信長の廟所という「阿弥陀寺」がある。

 

 

 

「本能寺の変」の後、信長たちの遺骸をこの寺の清玉上人が持ち帰って供養し、葬ったと伝えられている。ただしそれはこの寺が元あった場所で、そこから秀吉の命でここへ引っ越しになった。

 

 

 

そのすぐ先を西へ曲がると「上御霊神社」がある。正式には御霊神社だが、寺町通りの丸太町の南側に「下御霊神社」ができたので、こちらは上御霊神社と呼ばれるようになった。

 

 

 

この二つの御霊神社は、「御霊」すなわち〝魂鎮め〟の神社である。誰の怨霊かといえば、平安京ができる前の長岡京遷都の折りに、無実の罪を着せられて憤死した「早良(さわら)親王」の御霊。

 

 

 

だから祭神の中心は早良親王となっている。その「上御霊神社」のあたりは、応仁の乱が勃発したところともされている。ここで戦いが火を吹いてから、10年余にわたって京の町中で戦いが続いた。

 

結果として京の町は焼き尽くされて、町中が狐狸の住む荒地へと変貌し、足利8代将軍義政は戦乱を嫌って東山の山麓に逃避した。そこに建てたのが、現在は慈照寺(銀閣寺)となっている東山殿。

 

このあたりの話は、まさに日本史のトリビア満載である。これ以来、足利将軍家は大きく傾いて、世は戦国時代へと向かって行く。

 

この応仁の乱のときに、西に陣を敷いたのが山名宗全。その陣のあった一帯に、応仁の乱が収まった後で織物職人が集住したのが、いまでは「西陣織」として知られている「西陣地区」になる。

 

 

 

この応仁の乱で勝った東軍の陣があったのは、現在は茶道の表・裏千家などがある地域らしい。こちらは東陣とも、東軍跡とも言われない。

 

さらにその東側の室町通りから、現在は烏丸通をはさんで東に同志社大学があるあたりに、室町幕府の拠点「花の御所」があった。

 

 

 

ここも、今ではその一角にあったお堂が、後に尼門跡寺院となった「大聖寺(御寺御所)」が残っているくらいで、幕府の建物などは跡形もない。

 

ということでこの「応仁の乱」は、京都の人間にとって〝前の戦争〟といえば「応仁の乱」を指す、という冗談が残っているくらいに、京都で長く戦いが行われていた。

 

それが上御霊神社の前でこの戦乱がスタートしたということだが、嘘のように小さな石碑が建てられているだけだ。

 

 

 

そこからまた寺町通りに戻って、さらに北へ寺町通りが突き当たるところまで行くと、鞍馬口通りとなる。京へ入る鞍馬街道の入口に当たる場所なので鞍馬口。

 

 

 

寺町通りが鞍馬口通りとぶつかるところに、「上善寺」というお寺がある。京へ入るそれぞれの街道の、入口に当たるお寺に地蔵尊が祀られていた。その一つがこの上善寺の「鞍馬口地蔵」。

 

 

 

ということで、今日は午前中に自転車でこうした寺社を巡っていた。といっても時間にして45分程度。あまり天気が良くて、家にジッとしているのももったいないということで運動がてらに回ってみた。

 

 

(上善寺本堂)

 

中学時代、今日走ったこの寺町通りの大半は、私にとって自転車通学の通学路だった。そんなことだから、今さらという感じでもあるのだが、その頃はこうした歴史のトリビアも知らなかった。

 

この歳になって、日本史をおさらいしたい気分になってから、一つひとつが、「へぇ~、そうだったのか」という状態である。中学生には、まったく興味が持てない話だったと思う。

 

そうした場所に偶然に住んでいることが、あらためて面白いことだと感じる。そんなものかも知れないが、こうした歴史から何を学ぶかは後世に生きる人間の務めだと思う。