ポスト・コロナの時代のマーケティング | がいちのぶろぐ

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先日、旧知の法政大学の西川英彦氏が、フェイスブックに興味深い投稿をされていたのが目に止まった。

 

日本マーケティング学会がオンライン上で行った座談会を、グラフィック・レコーディング(グラレコ)として記録されたものを提示しておられた。

 

座談会は、「いまマーケティングでできること~新型コロナ危機での研究と創発」と題されていた。参加していたのは、現在マーケティング研究を牽引している6名の先生方だった。

 

それで丹念にグラレコに目を通してみたのだが、現状認識としては、社会が「転換点」であるからこそ、マーケティングの果たす役割は大きいと述べられていた。

 

この数ヶ月間に急速にデジタル化が進んだ中で、単なるオンライン化ではなく、「情報の範囲」と「情報の質」ということが問われるようになったという。

 

オンライン化が進展すれば、「企業と消費者の協働化」も進むだろうということは、比較的簡単に想像が着く。だからこそ、この時代におけるマーケティングのあり方が問われるということだ。

 

今後のイノベーションのあり方として、企業自身が「製品の再定義」を求められることになる、という話もされていた。自分たちは〝何を〟売ろうとしているのかという問題だ。

 

これはモノづくりの現場だけでなく、サービスや観光といった場面でも、同じ問い掛けを行いながら、あらためて考えなければならないことだと思う。

 

だから、これからは「社会的課題と向き合う」会社ということが意識されるようになるのではないか、といった意見も出ていた。

 

つまりこんな状況で、マーケティングには何が求められるかということだ。顧客が変容している時に、企業は顧客に向かってどんなことを伝えればよいか、を考えることになる。

 

そこで求められるのは企業の信頼性であり、それを「解りやすく伝えるストーリーの力」ということになる。

 

経済と安全・安心が両立できるような社会とは、つまるところ国連が提起した「SDGs(持続可能な社会のための目標)」の理念に行き着く、という考え方にもなってくるだろう。

 

また座談会の中では、「Brand of Tolerance」というキーワードも出されていた。翻訳するとしたら『寛容性がもたらすブランド価値』とでも言えばいいだろうか。

 

マーケティングの力によって、ポスト・コロナの時代に合った新しいブランド力を持った事業創造へとつなげて行く、ということだと思う。

 

企業と消費者の間に〝ゆるやかな関係が成り立つ社会〟を目指すというか、両者が切り離されたものではなく、と言って一体化したものでもない、消費者と〝ゆるやかな連携〟を持った企業ということだろう。

 

こうした社会像を整理する図式として、下図のようなアイデアが提示されていた。なお、この中で「顔のない街」と表記した部分は、グラレコでは「住所のない街」とされていた。

 

 

(マーケティング学会のグラレコを基に作成)

 

また図中の( )の中の言葉は、私が補ったもので、元の図には示されていなかった。さらに、図の中の「壁のない街」が〝現在の状況〟だとも記されていた。

 

この図のように( )内に言葉を補って考えると、図の対角線にある「鍵のない街」と「窓のない街」という状況が、両極端に位置していることがわかる。

 

また、「壁のない街(現状)」と「顔(住所)のない街」とは、〝地域の連携〟と〝住民の孤立〟という、これも〝都市的な空間〟でのあり方の相違と言えるのではないだろうか。

 

これからの社会の姿が、どの方向を向くのかはっきりとはしないけれど、都市的な空間にあっては、少なくとも〝現在の状況〟である「壁のない街」が望ましいことは言うまでもない。

 

ただ、デジタル化の進展が「鍵のない街」に向かった時に、はたして何を生み出すか、ということも想像しておかないといけない。

 

ちょうど、先日テレビ番組に出演していた若い女性が、ネット上での誹謗中傷に耐えかねて、みずから命を断たれたことが大きな話題になっている。

 

「鍵のない街」であれば、そのまま土足で家の中に入り込んでくる〝危険な他者〟の存在が有り得ることを痛感したところだ。

 

デジタル化の進展という枠組みで考えれば、社会全体が「鍵のない街」に向かうかもしれない状況だからこそ、そこで語りかける〝言葉の持つ力〟が重要になるのだと思う。

 

ポスト・コロナの時代におけるマーケティングは、結局のところ〝人と人との向き合い方の再構成〟が重要な課題となるだろうと、この座談会のグラレコを読んで感じた。