振り切った「まさか」を見せる | がいちのぶろぐ

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4月4,5日付のブログで、『観光マーケティング』というテーマで、近畿大学の廣田章光氏の論文から、「観光プラットフォーム=場やシステム」と、「アクティベータ=間に立つ人」によって作られる『地域と共生する観光』のことを考えた。

 

また67日付のブログで、三浦崇宏氏がダイヤモンド・オンライン誌に掲載されていた記事「『なるほど』ではダメ、『まさか』しかヒットしない」という記事から、「なるほど」と「まさか」の間にある『埋めがたい差』のことを考えた。

 

このお二人の意見は、それぞれにまったく異なるところから出発していながら、ある意味で、同じところへ向かう〝指針〟を示しておられるのではないかと思うようになった。

 

「なるほど」という考え方の代表事例に、北海道旭川市の「旭山動物園」が開始した、動物たちの『行動展示』という「見せ方の工夫」があった。これはすぐに各地の動物園やサファリパーク、水族館などにも広がっていった。

 

 

(旭山動物園の行動展示で有名になったアザラシ館)

 

動物園や水族館での「バックヤード・ツアー」であったり、夜間開園で夜行性の動物を見せたりする工夫など、さらなる発展形として現在では広く取り入れられている。

 

これは、明らかに従来までの〝見せ方〟から比べると、大きく進歩し、変化したものとなった。その結果、今までとは異なった楽しみ方を、お客に提供できるようになった。

 

「なるほど」というレベルでも、こうした工夫をすることによって随分と変わることができるということを示した事例だった。

 

これは、三浦氏の考え方に即して言えば「まさか」までは行かないけれど、広く〝万人受け〟する工夫ということになるだろう。

 

ところで、三浦氏はダイヤモンド・オンライン誌の記事の自己紹介で、『表現を作るのではなく、現象を創るのが仕事』だと、自分の仕事内容を規定しておられた。

 

つまり「表現を作る」とは三浦氏の説による「なるほど」であり、「まさか」というレベルになるためには、「現象を創る」ところまで至らないといけないということだろう。

 

このことを私なりに解釈すれば、「表現を作る」とはあくまで〝外部者〟であるお客に対して、行き届いたサービスを提供することだと思われる。一方で、「現象を創る」こととは、お客自身を〝内側へ取り込んでしまう〟ことではないかと思う。

 

その点を三浦氏は、「特定のコミュニティに深く刺さるものを作ること」がポイントだと考えておられた。つまり〝万人受け〟はできなくても、特定の人に大歓迎されるものが大事だということだ。

 

となれば、旭山動物園の行動展示に端を発した「見せ方の工夫」は、「なるほど」と思われるコト・モノの中で最上の部類だったということになる。

 

その一方で、廣田氏の論文のなかで事例として紹介されている、飛騨市古川町で「サイクリングによる町歩きツアー」を行っている「アクティベータ(中に立つ人)」の山田拓という方が考えていることは、「まさか」へ向かって一歩を踏み出したのではないだろうか。

 

 

(飛騨市古川町の町並み)

 

山田拓氏は『暮らしを旅する』というコンセプトで、飛騨に暮らす人々の日常をサイクリングで町を回って紹介している。そのツアーは、飛騨で暮らす人たちの〝日常の生活〟がなければ成立しない。

 

それは、異なる文化圏からやって来た欧米豪の旅行者にとっては、〝新鮮な〟非日常・異文化の世界にほかならない。

 

つまり外国人旅行者という外部の人間が、展示を見るという立ち位置から一歩踏み込んで、そこで暮らす人々の日常の生活と接するという、通常であれば「見られない」「体験できない」ことを可能にしている。

 

これこそ三浦氏が述べておられる、『現象を創る』ということになるのではないかと思うようになった。

 

万人受けする観光ではなく、最初からこのサイクリング・ツアーを目的として飛騨市を訪れた欧米豪の旅行者が、飛騨市へ行った時にだけ可能となる、「特定の人に深く刺さる」ツアーだということになる。

 

そこで、これまで紹介した事例とはまったく異なる事例として、「なるほど」から「まさか」に向かって展開したのではないかと考えられるイベントを思い出した。

 

昨年9月に京都市上京区役所で、「区成立140周年」記念事業の一環として開催された「上京ワクワクKIMONOコレクション」というイベントである。ひと言で言ってしまえば「着物のファッションショー」である。

 

 

 

着物のファッションショーというだけであれば、例えば京都市の「西陣織会館」ではモデルさんが着物で登場するショーが毎日開催されており、今回のウィルス騒動までは外国人観光客に人気だった。

 

外国人観光客にとっては、「舞妓」さんが踊りを見せるのと同じように、これもまた異文化体験型の観光と言ってもいいだろう。

 

ところが上京区役所のイベントは、こうした通常の着物ファッションショーとは大きく異なっていた。参加申し込みをした素人さんが、着付けをしてもらって区役所の会議室に設けられた特設の「ランウェー」を歩いたのである。

 

 

 

それだけなら、これもまたありがちな市民参加型のイベントだということになる。ところが、参加者の着付けを担当した太田由恵(ゆきえ)さんは、ちょっと変わった着付けを行って見せた。

 

 

 

洋装と和装をコラボレーションさせた着付けを行って、素人の参加者をランウェーに上げたのである。和服にショートブーツを履くだけなら「ハイカラさんが通る」の世界がある。

 

 

 

それをもっと大胆にアレンジして見せたのである。ショートパンツ・ルックの上に着物をまるでコートの様に羽織って見せたり、洋装の上に着物を何枚か片肌脱ぎで被せてみたりというスタイルだった。

 

 

 

 

まさに、三浦氏が言われる「まさか」というレベルの着付けになっていた。言ってしまえば、戦国時代の大名で「傾奇者(かぶきもの)=奇矯な服装の人」として知られる佐々木道誉を彷彿とさせる姿と言っても良いだろう。

 

その姿で、素人の方がランウェーを楽しそうに歩いていたのである。それこそ若い女性がジーンズ・パンツをはき始めた頃も、きっとこんな感覚だったのではないかとも思った。

 

それまで誰も試みたことがないことを、先陣を切って行うことの楽しさと言ってもいいかもしれない。この着物ファッションは、普通に着物を着る感覚からすれば、思い切って冒険をしているわけである。

 

きっと「特定の人に深く刺さる」試みだと思う。誰もが真似をできるわけではないし、必ず〝受ける〟とは限らない。けれど、「傾奇者」になろうと思えばなれるということだ。

 

外国人観光客に受けるのでもなく、日本人でも特定の層だけにアピールできるファッションだということだろう。

 

それでも、女性のジーンズ・パンツがきわめて当たり前のファッションになったように、大ヒットすればそれも「あり」ということになるし、そのまま〝それはそれ〟で終わってしまうかも知れない。

 

ただこのファッションショーで着付けを担当した太田さんは、「着物のカジュアル化」を目指しておられる。だからその一環として、とことん〝振り切った〟ところを見せてみたということだろう。

 

「まさか」から生み出されるモノ・コトは、特定の層に深く刺さってから、大ヒットにつながるかもしれないけれど、そのままで終わることもある。

 

飛騨市のサイクリング・ツアーも、体験型観光の進化形という考え方もできるかもしれないが、旭山動物園の行動展示といった〝展示〟から抜け出して、地域の〝暮らし〟の中に「飛び込む・身を置く」という振り切り方をした結果だと思う。

 

こうした「振り切り」が「まさか」の真髄なのだろう。万人受けするモノ・コトから脱却して、「今だけ」「ここだけ」「あなただけ」に徹することができるかどうか、という問題だろうと思う。