花びらを 頬で受け止め 昼の酒 | がいちのぶろぐ

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今日はお昼前から、京都府立植物園の西側の鴨川堤にある、桜の名所「半木(なからぎ)の道」と鴨川を挟んだ対岸に当たる鴨川河川公園まで、ピクニックに出掛けていた。

 

 

(2年前の春の風景/今日も同じあたりにいた)

 

この河川公園の近くとなる「北大路バスターミナル」まで市バスで行って、ターミナル・ビルにあるスーパーで昼ご飯を買い込んだ。

 

それから、半木の道の名残りの桜が鴨川越しに見える辺りまで、河川公園をぶらぶらと歩いていって、こちらも桜の木の下にあるベンチに陣取って昼ご飯を食べた。

 

少し霞がかかったような曇り空から、時折り薄日が漏れるという、暑くも寒くもない良い頃合いの気温だった。

 

水量こそ少ないけれど、ある程度は川幅のある鴨川が流れており、流れにはカモやサギが浮かび、公園にはハトが集まっているという、のどかな風景だった。

 

さすがに、半木の道の桜は随分と花が少なくなっているようだが、対岸から見ればそれでも桜色の帯に見えているという景色だった。

 

 

(やはり2年前の「半木の道」の対岸からの景色)

 

そこでおもむろに、水筒に詰めて持参していた日本酒と、ガラス製の〝ぐい呑み″を取り出して昼酒と決め込んだ。これがやりたかったのである。花を眺めながら、日本酒を飲むことを。

 

頭上の桜の木からは、時折り風に乗って花びらがハラハラと舞い落ちて来る。目の前には、餌をおねだりするハトが寄ってくる。そんな中で、平日の昼間に美味い日本酒を飲んでいる。これに勝る贅沢などあり得ないだろう。

 

こうして今日は、とんでもなく贅沢な昼ご飯になった。この光景を写真に撮ってみても、見せられる方は、きっと面白くも何ともない、むしろ腹立たしい図になると思ったから、いっさい写真は撮っていない。

 

午後1時半を過ぎた頃に帰宅したが、その時もまだ、ほろ酔いというか、フワッとした感じが続いていて、眠気を誘うくらいだった。だから昼酒は美味いのだと思う。

 

日本酒は、お正月前にいただいた滋賀県の名酒「松の司」の吟醸酒が、まだ少し残っていたので、それを水筒に残らず詰めて持って行った。これだけで十分に、今日は天国の気分だった。

 

ところで今日は、4月も半ばを過ぎた17日。平成も残すところあと2週間となった。テレビも一時の〝平成を振り返る″的な特番は、さすがにネタ切れがしたのか、今週あたりは見かけなくなった。

 

けれど、両陛下は引継ぎに向けた公務もおありだろうけれど、思い出の地を巡っておられるお姿が、テレビのニュースで流れることがある。

 

昨年が明治150周年だったけれど、何はともあれこの30年間は、日本が直接に戦争に巻き込まれることのない時期だった。そのことだけでも、平成という時代は特筆すべき時代だったと思う。

 

天皇陛下はご自身の言葉で、〝象徴とは何か″ということを模索してきた、とおっしゃった。この言葉の持つ深い意味を、今のダラケきった政治家たちは、どのように聞いていたのだろうかと思うと、歯がゆいやら情けないやら、という気持ちになって来る。

 

ということとは関係がないだろうけれど、10連休となるこのゴールデンウィークの初っ端に、京都市上京区が「区創設140周年記念事業」と銘打って、「上京大文化祭」を開催するという。

 

 

 

2728日の開催だから、〝平成最後のイベント″という感じになる。そのサブタイトルが「日本の奇跡」となっているのには、少し笑ってしまった。何が奇跡なのかよくわからなかったから。

 

今週の初めに、私が関わっている「定住外国人支援」のNPO団体の新年度1回目の会合があって、会場をお借りした上京区役所を訪れた際に、チラシを見つけて持ち帰ったので、このイベントのことを知った。

 

この「京都市上京区」という町は、半世紀余り前に北区が分離したので、行政区域としては比較的狭い範囲になってしまっている。

 

ただし、確かに「奇跡」的な町であることは間違いない、と遅ればせながら気付いた。チラシを見ながら、その奇跡という言葉の意味を考えていた。

 

まず、桓武天皇による「平安遷都」が行われて、最初に内裏(御所)が置かれたのが、上京区の千本今出川から南側の一帯である。その後、現在の京都御苑の場所に御所が移転したが、ここもまた上京区内である。

 

 

(内裏の「大極殿」があった場所に建てられている石碑)

 

だから、あの「源氏物語」や「枕草子」に出て来る舞台なども、この上京区内のどこかしらが多いということになる。これだけでも十分に「奇跡」かも知れない。

 

次に、源頼朝が開いた鎌倉幕府が瓦解し、南北朝の時代を経て、足利尊氏が室町幕府を開いたが、その室町幕府の政治拠点となった「花の御所」は、現在、上京区役所の庁舎が建っている新町今出川の北東側である。

 

(「これより東北 足利将軍」などが読み取れる「花の御所」の石碑)

 

今ではその当時の遺跡などもなく、小さな石碑が新町今出川の角に、ひっそりと立っているだけだが。新町通りから一筋東側に当たる通りが「室町」通りだから、「花の御所」があった場所にちなんで「室町幕府」なのである。

 

さらに550年余り前に起こった、京の都全体が戦場と化した「応仁の乱」も、西軍の山名宗全が陣を敷いた場所は、後に「西陣」と呼ばれるようになったが、これも上京区内の堀川今出川周辺である。

 

 

(山名宗全の陣に近い「西陣織会館」に飾られている西陣織の暖簾)

 

応仁の乱を境に、室町幕府が衰退し、戦国の世を経て安土桃山時代から、江戸時代の260年余りの間、京の都にいる天応は影が薄くなっていた。

 

しかし、幕末の動乱期になって御所の周りが騒がしくなってくる。天皇を担ぐ勤王派の浪士なども京都に結集し、御所を巡って「蛤御門の変(禁門の変)」が起こる。

 

その時の薩摩藩京都屋敷は、現在は同志社大学になっているが、御所に隣接した烏丸今出川の北側の一角だった。

 

 

(薩摩藩邸跡らしく復元されている同志社大学大学院の正門)

 

また京都御苑(御所)の北の端には、明治天皇の生家である公家の中山家邸宅が、今も残されている。この幕末の動乱から出発して、鳥羽伏見の戦いを経て江戸城開城へと、近代日本の幕が開いて行った。

 

(旧・中山家邸宅/京都御苑)

 

なんと、1200年以上にわたって、日本の歴史の中で何か事が起こるたびに、その中心となってきた場所が、この上京区だったということになる。

 

確かにこれは「日本の奇跡」であり、同時に「日本の軌跡」と言っても良い町だと思う。そうか、そうだったのかと改めて感じ入った次第だった。

 

「上京大文化祭」は、北野天満宮を会場に開催するということだ。まあ、ゴールデンウィークに特別に予定があるわけでもないから、これは会場を覗いて来ないといけないのかな、と思っている。