晩秋に 無為の歳月 振り返り | がいちのぶろぐ

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知識が陳腐化する速度が、加速度的に早くなっている。だから、大学で学んだ専門的知識に縋っているようでは、これからの社会では生き残れないかも知れない、ということらしい。

 

今日配信のダイヤモンド・オンライン誌で、山口周氏が「『独学』できる人しか生き残れない時代になった」ということを書いておられる。

 

確かに、情報通信革命によって、これまでは当たり前のこととして考えてきた多くのことが、すでに当たり前ではなくなりつつあると思う。

 

ビッグデータという言葉が、一般的に使われ始めて45年になるかと思う。しかし、時代はその5年間で、ビッグデータを解析して意思決定することが、何の不思議もないところまできた。

 

仮説を立てて、それを実行して検証してみる、というごく当たり前の作業を考えて見ても、今までは実際にモノを作って、テスト的にそれを使用なり販売なりして、仮説を検証する、という作業を行ってきた。

 

それがビッグデータの解析によって、そうした段階を省くことも可能になってきている。こうした変化の激しい状態はまだまだ続くだろう。その変化を「イノベーション」と呼び、どんどんイノベーションを起こすことが、必然的に要求される時代になっている。

 

だから、10年、20年前に修得した知識などは陳腐化し、今や、新しい知識の前には無力化しているということだろう。

 

そのために、個人がこうした社会で生き残るには、新しいことを次々に吸収し、それを自分のものとして行かない限り、個人が淘汰されてゆくということらしい。だから、自らの力で「独学」して、イノベーションに着いて行ける人間になりなさい、ということなのだろう。

 

その際のキーワードとして、山口氏は4つの切り口を上げておられた。それらは、「知識の不良資産化」「産業蒸発の時代」「人生三毛作」「クロスオーバー人材」の4つだという。

 

つまり、それまでに学んだ知識はどんどん「不良資産化」する。極端に言えば、その既知の知識のみで作り上げられている産業や企業は「蒸発する=消えてなくなる」かも知れない。確かに、携帯電話の〝写メ″にコンパクトデジカメが追われ、そのガラケーがスマホに吹き飛ばされた。

 

IoTやAIによって、陳腐化する作業や商品は多くなるだろう。そして、新たにこうした技術を応用した「イノベーション」が起こって来れば、それに対応できなければ、個人も企業も、産業ですら没落する可能性もある。

 

今まさに、キャッシュレス社会が到来しつつある中国を見るまでもなく、ATMで現金を引き下ろす時代から、スマホや電子マネーで支払う時代になれば、コンビニのATMがどんどんと不要になり、そこで得られた「手数料収入」が無くなり、コンビニの収益が悪化す恐れがあるという記事を、ほんの数日前に読んだところである。

 

これなども、イノベーションが業務どころか、企業の存亡をも左右しかねないという事例だと思う。

 

しかも人生は100年時代と言われるほど長寿命化し、人が労働と向き合う時間は長くなりそうである。そんな時に、「パソコンが使えません」とか、「スマホは嫌いです」などと言ってみても仕方がないわけである。

 

だから山口氏は記事の中で「人生三毛作」という表現で、企業も人間も「旬の期間」が短くなっており、個人であれば労働人生で3回は大転換を余儀なくされる、と説いておられる。

 

少なくとも今まで言われてきた「企業30年寿命説」は、もう通用しないだろう、ということであり、コンパクトデジカメからガラケー、スマホへと、15年周期から10年周期へと、モノと企業の「旬」の時期が縮んで行くだろう、ということだと思う。

 

人の方が新しい商品に対して飽きっぽくなった、というよりも、外見が同じに見える商品であっても、その内部では恐ろしいスピードでイノベーションが起こっているから、その変化に着いて行けなければ、ふるい落とされるということなのだろう。

 

だからこそ、少なくとも一つの秀でた専門分野を持ちつつ、ゼネラリストとして広い視野と洞察力を持った人材が求められている、ということが「クロスオーバー人材」という4つ目のキーワードの趣旨だと思う。

 

クロスオーバーでもフュージョンでもいいけれど、分野横断型というか、多分野の理解力というものは、個人の中でそう簡単に習得できるものではないし、そのような人材を育成することは、企業にとっても大変な投資となる。といって、外部から調達するにもコストが掛かるし、良い人材は奪い合いになる。

 

個人的には、そうしたゼネラリストになれるように「独学」をする必要があるだろうし、それで個人のブランド力を向上させて行かない限り、時代に取り残されて行くかもしれない、ということになる。

 

厳しい時代だと思う。しかし、知識を仕入れて、それを自分のものとしつつ、さらに「考える力」を磨いて、知識を「知恵」に昇華できるようにしないといけない、と言われれば、それはわかっているのだけれど、時間もないし、何よりもそこまでは着いて行けない、という悲鳴が聞こえてきそうな気がする。

 

ITを駆使すればイノベーションすら、制御し、管理し、システム化できるものになる可能性があるという話を、最近どこかで読んだような気がする。

 

そうなれば、イノベーションを連続して起こし続ける「システム」を組み立てるということすら、もはやイノベーションではなくなってくる。何だか言葉遊びのように思えて来るが、時代はそこまで来ている、ということなのだろう。

 

これから社会に羽ばたこうとする若い人たちには、とんでもない社会生活が待ち受けているような気がする。