私は、常々、「英語が話せなくても困らないが、日本語が話せないと困る」と思っている。「日本語が話せないと」という意味は、「日本語で自分の言いたいことを適切に表現できなければ」という意味で、「困る」というのは「日常生活でたいへんな不利益をこうむる」ということを意味する。



私の本業は弁護士であるので、依頼者の話を聞くことが仕事の第一歩だ。私は依頼者の話をなるべく丁寧に聞くよう心がけているが、事態がこじれにこじれてから弁護士のもとに駆け込んでくることも少なくないため、依頼者の中には、これまでの経緯や問題点を整理して話すことができない方もいる。それは大変困った事態である!! 彼もしくは彼女は、弁護士に対して、適切に「困っていること」を説明できなければ、自分の権利を守れないのだから。というよりも、そもそも日本語がうまく操れないためにトラブルになっている場合も多いように思う。


そうした職業上の経験からしても、私は、日本語で物事を論理的に考え、表現できるという前提がまずあって、その次に英語(もしくは外国語)ということではないかと思っていた。それが冒頭の言葉にもなっている。



だが、「日本語も英語も」というのが、現在のわが国の目指す教育の方向性である。2011年から小学校56年生の週1時間の外国語(英語)活動が必修とされる。「活動」なので成績評価の対象にはならないが、誰が英語を教えるのかという問題については未解決だ。


この点について、苅谷剛彦東京大学教授(教育社会学)は、「英語教育改革の議論を見ていると、どうしても『ポジティブリスト』の発想に見えてしまう。資源の投入がほとんどないまま、英語を使えたほうがいいという甘い判断で、英語教育を導入するといった姿勢である。」注1)と指摘する。

また、苅谷教授は「ポジティブリスト」について、次のように説明している。「『こんなふうに、できたらいいな』ということをつぎつぎと書いていくと、そのリストのすべてができたときには完璧な人間が育つみたいな考え方が、ポジティブリストの考え方です。(中略)たとえば、チャンスのウィングをもう1つ広げるために、英語ができたらいい、みたいな感覚というのは理解できます。できないよりは、できたほうがいい。だけど、そのチャンスを広げるためにたとえば小学校で英語を必修科目にしたりすると、時間の制約もエネルギーの制約もあるから、ほかのことができなくなっていくはずですよ。ポジティブリストにどんどん足していって本当になんでもできるようになるんだったら、延々とリストを長くしていけばいい。だったらすばらしい教育ができますよ。ところが、現実には子どものキャパシティの問題もあるし、教える側のキャパシティの問題もある。いろんな制約がある中で、リストにどんどん足したって、必ず何かはみ出してくる。僕らの仕事だってそうでしょう。あれもやりたい、これもやりたいと思ったって、1つ別の仕事を入れたら、どこかにシワ寄せがいって、ほかのことをやる余裕は減るじゃないですか。大人はみんな知ってますよね。」2)

これと逆の発想は「ネガティブリスト」であるが、これについて苅谷教授は「『最低限こんなことにはならないようにして、あとは放っておけ』というふうに考えてリストをつくる」注3)ことだ言っている。


話は少しそれるが、私はベトナムという国が好きで、数回観光に訪れたことがある。ホーチミンには「ベンタイン市場」という、その昔は地元の人々に食料や日用雑貨を提供していたが、現在は観光客向けのスポットとして有名な市場がある。その市場では、日本語を流ちょうに話すティーンエイジの女の子たちが何人かいる。彼女たちは、ベトナムの名産であるコーヒー豆などの売り子さんである。日本語を話せるので、日本人の観光客には大変便利で、自然といくつかあるコーヒー豆屋さんの中でも日本語の話せる売り子さんがいるお店に行ってしまう。彼女たちにとって、日本語(である外国語)を話せるということは、生活に直結する問題である。売り上げに影響するからだ。そして、あまり豊かとはいいえない経済状況において、それは生死にも直結する。

日本において、英語が話せなければ、「今日の米を買うのにも困る」という人はまずいないだろう。



日本とベトナムを比較するのが適切かどうかはわからないが、日本の中で、「そこまで困る」ことがないなら、まずは、さしあたって「これを勉強しないと困る」というものを優先させてはどうか。1日は24時間しかなく、1年は365日しかないのだから。



(注1)「教育再生の迷走」苅谷剛彦著(筑摩書房)p.131

(注2)「欲ばり過ぎるニッポンの教育」苅谷剛彦+増田ユリア(講談社現代新書)p.4546

(注3)前掲注2p.45