こんにちは。
このところ続けて上げています令和3年冬の肥後・天草遠征シリーズ。
今回も前回同様、天草からになります。
天草の銅像と言えば、天草四郎さん一本やりかと思いきや、コチラの方々の銅像もけっこうあったりしました。
よろしくお願いします。
鈴木正三・重成(富岡城二の丸跡・富岡ビジターセンター)
鈴木正三さん&重成さん兄弟、皆さまご存知でしょうか?
このシリーズはこんな入り方ばっかりですね。
鈴木正三さんは仏教思想家とでも言うのでしょうか。関ケ原や大坂の陣でも武功を立てたそうですが、40代前半には仏門に入り、著書「万民徳用」では「何の事業も皆仏行なり(どんな職業もみんな仏道修行になる)」と説いたそうです。
そして、鈴木重成さんは正三さんの弟さん。天草・島原の乱後、天領となった天草に代官として治め、復興に尽力した御仁とのことです。
天草だけでなく、熊本の銅像の特徴として、ケチケチしていないというか、とにかくデカい、台座もデカいというのが挙げられると思います。
公園や駅に建てられる銅像は、個人の場合は、その方の業績を讃える顕彰碑としてだけでなく、街の顔=象徴・シンボルとしての役割=町の宣伝部長としての役割が大いにあると思います。
正直あまり有名でない鈴木さん兄弟にこれだけの銅像をおったてるとはこの公園を管理する苓北町、なかなかやり手の自治体とみました。
このお手に持っているもの何ですかね?鍬かな?
そんでもって、重成さんが腰につけてるのはハンディ斧ですかね。
実はこのお城の二の丸跡には、もう二体の銅像があったりするのです。
その銅像には「日本の恩人」とあります(ちなみに鈴木兄弟には「天草の恩人」となってます)。
その「日本の恩人」とは
向かって左手が勝海舟さん。向かって右手が頼山陽さんです。
勝海舟さん、天草にもゆかりのあるそうで、咸臨丸でつけたそうです。
頼山陽さんも天草にご縁があったんですね。「鞭声粛々夜河を過る」くらいしか存じ上げません。ごめんなさい。
あのですね。富岡城、整備具合がハンパないですよ。
あの、こんなの田舎のお城でこの整備具合、考えられないです。
立派でキレイにもかかわらず集客に結びついてないかも。
まあ、銅像好きには、広くて人が少なくて、日当たりさえよければ写真撮り放題とベスト環境なんですけどね。
お城のすぐ向こうは有明海であり、島原ですいね。
金持ち苓北町=場内にある歴史資料館では、御城印がいただけます。
(富岡城 御城印 登城記念 冬季限定版)
(富岡城 御城印 登城記念 通常版)
御城印袋はこんな感じ。
で説明書も凝ってます。
この歴史資料館が立派なこと、、、
見てください、この柱と梁を
おそらく近くでは採れないだろうアカマツとかですかね。
銅像含めて公園整備、ウン十億円とみました。
どうも、町長が当時の中央与党とかなりお近い関係らしいですよ。
鈴木重成(富岡城登城口)
お城の登城口には重成さん銅像ソロ活動中でした。
おもいっきりお名前が書いてあります。
なかなかシブい説明書きです。
そして、天草のウォール街=中心部には鈴木さん三人衆の銅像があったりしました。
鈴木正三・重成・重辰(天草信用金庫本店前)
これも立派な銅像ですよ、しかし。
台座も立派。
富岡城の鈴木正三さん、重成さんに加え、重成さんの息子=重辰さんが加わった「鈴木三公像」と呼ばれておりますです。
天草キリシタン館には、陶器でできた大正時代の三公像がありました。
招き猫や陶器のおもちゃみたいな感じでしたけど。
まあ、私、天草の信金さんには何のゆかりもありませんですが、写真撮るため駐車場をお借りしたので、一応、本社ビルと立て看板とをご一緒させてもらいます。
こんなんが、銅像の後ろに、、、
令和3年冬の肥後・天草遠征シリーズはまだ続きますが、今回でようやく天草を脱出します。
次回は、肥後でも南の方からになります。
よろしくお願いします。