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西洋医学の発展が進む一方、それを補うものとして東洋医学の役割に改めて注目が集まっている。では、東洋医学の根底にあるものとは何か。
明治以降、西洋医学が急速に浸透したわが国においても、東洋思想への回帰が進んだ昭和維新期には、改めて大亜細亜の中の日本医学の発展を捉えなおすという視点からの研究が進んだ。その一つが、小泉栄次郎が昭和九年に編んだ『日本漢方医薬変遷史』(藤沢友吉商店)である。本稿では、同書に基づきながら大亜細亜の中の日本医学の歴史を振り返ってみたい。
わが国伝統の医学は、「皇医学」と呼ばれてきた。その起源はどこにあるのだろうか。歴史家たちは、『古事記』に掲げられている神皇産霊神(かみむすびのかみ)が、大穴牟遅神(おおなむじのかみ)が火傷をしたのを哀み、蚶蛤(蚶は赤貝)で治療したこと、また大穴牟遅神が因幡の白兎のために蒲黄(ガマの花粉)を塗って治療したのを皇医学の起源としている。
また、『日本書紀』には、大穴牟遅神は少彦名神(すくなひこなのかみ)と力を合わせて天下を経営し、また蒼生、畜産のために、療病の方を定め、また鳥獣昆蟲の害を防ぐために、その「禁圧の法」を定め給うたとあり、歴史家はこの両神を皇国医薬の始祖としてきた。
一方、わが国の医薬は朝鮮半島、中国から影響を受けて来た。すでに、允恭天皇三(四一四)年、天皇の病気を治療するために、新羅から金武という医者を招聘している。金武の治療によって允恭天皇は健康を回復された。天皇はこれを厚く賞して金武を新羅に帰国させた。これが、朝鮮半島からの医薬流入の始めと考えられている。
雄略天皇三(四五九)年には、天皇詔して良薬を百済にお求めになり、百済王は高麗の名医であった徳来を日本に送った。こうして徳来は難波に住むこととなり、以来彼の子孫は代々医を業とし「難波薬師」と称せられるようになった。
欽明天皇十三(五五二)年には、百済王がわが国に使者を送り、仏像、仏具、経典を献上した。新羅が百済の領土であった漢江流域に奇襲攻撃をかけたのは、翌五五三年のことである。百済王は、わが国に援軍を依頼してきた。わが国はこれに応じ、百済から医、卜、易の博士を交代で来朝させることになった。
こうして五五四年、百済から医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)が来日した。
ちなみに、弘前大学医学部の松木明知氏と中世ペルシャ語に精通した京都大学名誉教授の
伊藤義教氏の共同研究によって、王有陵陀、潘量豊丁有陀はともにイラン系だったことがわかっている。
つまり、わが国には6世半ばにペルシャ系の医学も流入していたのである。
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