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「日本には哲学がない」という言い方をする人もいますが、これまでの概念の「哲学」を超えたものがあるのかもしれません。

舶来ものだからという理由だけでありがたがる必要はありません。良いものは良い。悪いものは悪い。人心を惑わすものであってはなりません。成り立ちもあわせて学びましょう。


報徳思想
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報徳思想(ほうとくしそう)は、二宮尊徳が説き広めた思想であり、経済学説のひとつ。経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く。たらいの中の水に例えることも多い。

静岡県掛川市の社団法人大日本報徳社と、全国の地域、職域にある報徳社(社団法人)が中心となって普及活動に努めている。

目次 [非表示]
1 報徳の教え 概要
2 至誠、勤労、分度、推譲
3 実践としての報徳の教え 
4 関連事項
5 外部リンク


[編集] 報徳の教え 概要

静岡県掛川市の二宮金次郎像報徳の教えとは、二宮尊徳が独学で学んだ神道、仏教、儒教などと、農業の実践から編み出した、豊かに生きるための知恵である。神仏儒を究極的には一つにいたる異なる道に過ぎないと位置づけ、神仏儒それぞれの概念を自由に組み合わせて説かれている。そのため報徳の教えを報徳教と呼ぶことがあってもそれは宗教を意味するものではない。

報徳の教えの中心的概念は大極である。この大極にそった実践を行うということが報徳教の根幹をなす。二宮尊徳はこの大極を三才報徳金毛録のなかで円を描くことによってしめしている。この円を分けることにより、天地、陰陽、などの区別がうまれる。つまり、大極とは、すべてのものが未分化な状態、一種の混沌状態をさす。

大極はつねにそこにあるものであるため、人間が何をしようがつねに大極とともにある。しかしながら、人間は我であるため、つねに大極と何らかの関係をとらなければならない。そこから大極に対して積極的に向かう姿勢である人道と大極に消極的に向かう天道の区別が生まれる。

天道にのみそって生きるとき、我である人間を支配するものを人心とよび、人道にそって生きるとき我を支配するものを道心という。人心は我欲にとらわれたこころであり、欲するばかりで作ることがない。このような心の状態でいる限り人間は豊かになることができない。道心にそった生き方をして始めて人間は人心への囚われから解放され、真の豊かさを実現できるのである。

ここで重要なのは、道心にそった生き方というのが何処までもプラグマチックに説かれているところである。道心は、それが善だからなどの道徳的な理由で選択されるべきものなのではない。報徳教は単に、人心に従えば衰え朽ち、道心に従えば栄えるという道理を説くに過ぎないのである。


[編集] 至誠、勤労、分度、推譲
道心にそったこころの状態を報徳教では誠とよぶ。この誠は儒教で言うところの徳や仁という概念に等しいものである。つまり、大極にたいして積極的に向かっていく暮らしとは、まず誠を尽くしたものでなければならない。我の心を大極と積極的にかかわる状態、つまり誠、徳、仁、の状態に置くこと至誠とよび、至誠がまず実践の第一をなす。

この至誠の状態で日常生活のすべての選択を行っていくことを勤労とよぶ。至誠がこころの状態をさすのに対し、勤労はそれが行動になって現れた状態をさすのである。そのため、勤労とは働くことを含むが単に働くことをさすのではない。

勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それは消費活動にも現れる。これを分度という。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果に自然と使わざるをえないもののみを使うということを意味する。

そして、最後に分度して残った剰余を他に譲ることを推譲とよぶ。分度と同様に、推譲は単なる贈与なのではなくて、至誠、勤労、分度の結果のこったものを譲ってはじめて推譲になるのである。


[編集] 実践としての報徳の教え 
以上のように、道心を立てた結果として、至誠、勤労、分度、推譲、を行っていくことではじめて人は物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるというのが報徳教の根本的論理である。ここで論理というとき、それが教えそのものでないことに注意が必要である。報徳の教えの真髄とは、これらの至誠、勤労、分度、推譲の実践のなかでいかに徳が徳によって報われていくかということを見極めることにある。この実践のなかで初めて理解できる言語化できないものこそに報徳の教えの真髄があり、尊徳が「見えぬ経をよむ」という言葉で示しているのはまさにこのことをさす。また尊徳が、たんに本を読むだけで実践につながらない態度を諌めて「たんなる本読み」になってはいけないと語ったのも同様の事情によるものである。

参考文献

児玉幸多 編 『二宮尊徳』 中公バックス日本の名著26、中央公論社 1984年

二宮尊徳 『三才報徳金毛録』 児玉幸多編 所収

福住雅兄 『二宮翁夜話』 児玉幸多編 所収


ぜんきょう
女房からメールをもらいました。


今のダメな日本、外資系のために動く政府、外資のために払わされる税金、教育改革、こういうことを怒って、世論を形成して、戦ってちゃんとした日本を取り戻してほしい。ということを団塊の世代に「やってくれ」と訴えかけるものを書いてほしいです。
なぜなら、団塊の人たちは、かつては学生運動を作ってきたり、自分たちの理想を掲げて同世代の若者をリードしきた人たちです。それに数のパワーもあります。
退職して、第2の人生、旅行だ、別荘だ、農村だ、投資だもいいですけど、仕事を終えてまた集って、学生時代には体制に負けたけど、長いお勤め暮らしの中でのいろいろな経験を生かし、今度は、知恵を集めて、今の政府に勝ってほしい。このままではだめだと心の中では感じている団塊もいるのではないか。それとも全員、骨抜きになってしまっているのでしょうか。そんなことは無いとかすかな希望を持って、彼らを動かすようなものを是非書いてほしいと、私は思っています。退職後も骨抜かれっぱなしにしようとするオファーは世にあふれています。彼らに気づかれて本気になられたらまずいと思う人たちがいないでしょうか。
彼らの心をグッとつかむキーワードや、彼らの危機意識を高め、結集して動かすツボをあなたならご存知なのではないでしょうか。仕事人生を終えた彼ら。今こそ適材適所、役割を考え学生時代のように闇雲に突っ走るのではなく、戦略をねって、経験を生かして計画を成功させる力をもってあのときの仲間とともに、またイッチョウやりたい。と胸に秘めている人たちはいないでしょうか。
退職し、子育ても、住宅ローンも終わっている彼ら。人生に守るものはもう無いじゃないですか。やり残したのは、若いときのあれ。また再び、彼らを必要とする時代の舞台があるんだよ。って。戦後民主主義で骨なしの彼らだからこそ、底力を振り絞ってがんばってほしい。それがもしかしたら今の若いニート達の生きるお手本にもなるかもしれない。(これは2次効果)○○大、××大、がんばれ!
いかがでしょうか。


たいよう  
『美しき日本の残像』アレックス・カー
1993 新潮社・2000 朝日文庫
10年以上前、発売されてすぐ書評を読んで気になり入手した本です。
彼はすでに日本に見切りをつけてタイのバンコクへ出て行ってしまいました。

大野和基のBehind the Secret Reportsの中で紹介されている「なぜ日本はこんなに 落ち込んでしまったのですか?」(月刊PLAYBOY 2002年6月号)と題するコラムを読みました。http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/alexkerr.htm

下記にもある 日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だの言葉を私たちは噛み締めなくてはなりません。
日本人が日本人として、男が男として自信と誇りを持てるような教育を私たちは受けてきたでしょうか?子供たちに受けさせてきたでしょうか?
甘ったれの役立たずばかり作ってきませんでしたか?


「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない」
アレックス・カーは断言した。

その根本にあるのは、日本の教育のあり方だと指摘する。
「元厚生官僚の故・宮本政於氏が、日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だと言ったが、これは正鵠を射ている。これも工業モードなんですね。分析的思考をできなくするように教育する。自分で考える方法を教えない。企業戦士を作るための骨抜き制度です」

アレックス・カー/1952年アメリカ生まれ。
東洋文化研究家。12歳の時、海軍の弁護士だった父に連れられ初来日。横浜に2年間住んだ後に帰国。エール大学で日本学を専攻する。19歳のときヒッチハイクで日本一周の旅を敢行。その時出会った徳島県祖谷(いや)の茅葺き屋根の家 に魅かれ、慶應義塾大学に通いながら、古い家屋を修復する。『美しき日本の残像』(朝日文庫)で新潮学芸賞受賞。最新刊は現代日本の暗部を暴く『犬と鬼』(講談社・4月刊)