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子供たちに何を見せようかと思って古いレーザーディスクの中に見つけました。
私が初めてみたのは高田馬場の名画座だったと思います。
「見世物として出して欲しい。そうでなければ殺して欲しい」
身動きが利かない主人公に感情移入し、望みが受け入れられないラストシーン。映画が終わっても絶望感でしばらく立ち上がれませんでした。
何で彼はこうなってしまったのか?
ダルトン・トランボ
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ダルトン・トランボ(ドルトン・トランボとも表記)(Dalton Trumbo、1905年12月9日 - 1979年9月10日)は、アメリカ合衆国の脚本家、映画監督。アメリカで1940年代に起こった赤狩りに反対したハリウッド・テンの一人で、その後の迫害期に使用したペンネームや借用名義としてはベン・L・ペリー(Ben L. Perry)、ロバート・リッチ(Robert Rich)、イアン・マクラレン・ハンター(Ian McLellan Hunter)がある。
目次 [非表示]
1 プロフィール
2 脚本作品
3 原作作品
4 監督作品
[編集] プロフィール
アメリカ合衆国コロラド州モントローズに生まれ、地元のコロラド大学を卒業後、雑誌の記者・編集者を経て脚本家への道に進む。映画界には、1937年の「潜水艦SOS」の脚本家としてデビューし、1940年の「恋愛手帖」ではアカデミー脚色賞にノミネートされ、一躍ハリウッドのトップ脚本家として脚光を浴びることとなる。
1945年、「東京上空三十秒」「緑のそよ風」などの脚本を手がけ、着実にキャリアを積んでいたが、1947年10月20日、第二次世界大戦後、東西対立を利用しようとした政治家の反共キャンペーン非米国活動委員会による第一回聴聞会に呼び出される事になる。この、後にいわゆる「赤狩り(マッカーシズム)」と呼ばれた運動の最初の標的とされたハリウッド映画界の著名な10人の映画人(ハリウッド・テン)の中にトランボの名があった。当時のハリウッドにはジョン・ウェインらを筆頭に「アメリカの理想を守る映画連盟」なる組織が設立され、非米国活動委員会への協力が推進されていたと言われる(一説には密告などの行為が推奨されたとされる)。第一回聴聞会に出席したトランボは、そこでの「あなたは共産主義者か、あるいは、かつてそうであったか?」との問いに、アメリカ合衆国憲法修正一条(言論と集会の自由を規定した条項)を理由に証言を拒む。その結果、議会侮辱罪で逮捕、禁固刑の実刑判決を受ける事となった。
その後、出所したものの映画界かはら事実上の追放処分ととなり、妻らと共にメキシコに移り住むことになった。貧困にあえぐ生活を強いられていたトランボは、それでも偽名を使って脚本家としての仕事を続けており、B級映画作品の脚本で食いつないだ。(低予算で映画制作をする側にしてみれば、ハリウッドの高給取りの脚本家作品を安く買えることに意味があり、トランボの思想の左右など問題ではなかった。)1956年にロバート・リッチの名義で参加した「黒い牡牛」でアカデミー賞原案賞を受賞するが、彼の名前は公にされず、アカデミー協会は1975年になって初めてトランボの名前を刻んだオスカーをトランボに送った。クレジットに彼の名前が再び現れるのは、1960年の「スパルタカス」であり、追放から13年が経過していた。
近年になって追放中の1953年に作成された「ローマの休日」の原案・脚本であるイアン・マクレラン・ハンターが実はトランボであり、名義を借用していた事が関係者の証言で明らかになった。「ローマの休日」のイアン・マクラン・ハンターはアカデミー賞原案賞を受賞している、トランボは「黒い牡牛」以前に既にオスカーを手にしていたのである。最近発売されたDVDなどのソフトには、原案・脚本のクレジットがデジタル処理によりトランボの名前に変更されており、本来の受賞者の名前で鑑賞することができるようになった。
トランボは実名でハリウッドに復帰した後も、「脱獄」「パピヨン」などの大作・ヒット作に名を連ね、1973年「ダラスの熱い日」の脚本を最後に1979年に没した。没後10年を経てスティーブン・スピルバーグがトランボの原作を元に「オールウェイズ」を制作している。
トランボは一般的には反戦運動家と受け取られており、第二次世界大戦勃発の1939年に、負傷兵をテーマとした小説「ジョニーは銃を取った」を上梓する。本作のタイトルは第一次世界大戦の志願兵募集キャッチフレーズ「ジョニーよ銃を取れ」に対する皮肉と思われる。大戦中のアメリカでは反政府文学となり発禁処分の憂き目にあい、戦後になってから復刊された。さらに朝鮮戦争時に再度絶版となり休戦後復刊された。戦争のたびに絶版、復刊を繰り返すこの作品を、トランボはベトナム戦争最中の1971年、65歳にして自身唯一の監督作品として、原作・脚本を兼ね「ジョニーは戦場へ行った」として制作した。「ジョニーは戦場に行った」は、その年のカンヌ国際映画祭で、審査員特別グランプリ、国際映画評論家連盟賞、国際エヴァンジェリ映画委員会賞を受賞する。
一方トランボは第二次世界大戦中にはプロパガンダ映画「東京上空三十秒」の脚本も手がけておりその中では負傷兵というテーマは同じだがそれを乗り越えて戦争を遂行する兵士を讃えている。本「ジョニーは戦場に行った」も戦争中前線の兵士が読んでいたというエピソードがあり、映画も宗教的色彩が濃く、作者の意図が単純な戦争反対であるかどうかは不明である。
[編集] 脚本作品
潜水艦SOS The Devil's Playground(1937年)
恋愛手帖 Kitty Foyle: The Natural History of a Woman(1940年)
夫は還らず(1943年)劇場未公開TV放映
緑のそよ風 Our Vines Have Tender Grapes(1945年)
東京上空三十秒 Thirty Seconds Over Tokyo(1945年)
ローマの休日 Roman Holiday (1953年)イアン・マクレラン・ハンター名義
テキサスの死闘 Terror in a Texas Town(1958年)劇場未公開、米JBSでTV放映、ベン・L・ベリー名義
スパルタカス Spartacus(1960年)
栄光への脱出 Exodus(1960年)
ガン・ファイター The Last Sunset(1961年)
脱獄 Lonely Are the Brave(1962年)
いそしぎ The Sandpiper(1965年)
ハワイ Hawaii(1965年)
フィクサー The Fixer(1968年)
ホースメン The Horsemen(1971年)
ジョニーは戦場に行った Johnny Got His Gun(1971年)
ダラスの熱い日 Executive Action(1973年)
パピヨン Papillon(1973年)
[編集] 原作作品
新妻はお医者様 You Belong To Me (1941年)
ローマの休日 Roman Holiday (1953年)
黒い牡牛 The Brave One(1956年)ロバート・リッチ名義
ジョニーは戦場に行った Johnny Got His Gun(1971年)
オールウェイズ Always(1989年)

