片鱗 | 文芸部

文芸部

ブログの説明を入力します。

「さてと」

 

 

 

初めに口を開いたのは吉川さんだった。俺たちは喪蛾と別れた後、駅前を一通り回って店を探したが、有名なチェーン店はどこも混んでいて話をするには不向きなところばかりだった。結局、路地を奥に入ったところにある客の少ない薄暗い喫茶店に入ることになった。こんなところ、俺みたいな野郎ならともかく女の子が来る場所とはとても思えない。分煙もされておらず、テーブルには薄汚れた耐熱性の灰皿が置いてあった。そんなところにも関わらず、吉川さんは何食わぬ顔で席につき、注文を済ませていた。そして至って温和な、軽蔑する様子も、かといって下手に出る様子もない口調で切り出した。

 

 

 

「改めまして、お久しぶりです、櫻井さん」

 

 

 

「え、ええお久しぶりです、吉川さん」

 

 

 

俺は少々戸惑いながら答える。こんな形での再会になってしまったこと、職も失い喪蛾と同列の底辺に没落してしまったこと、それを知られたことへの動揺がはっきりわかるほど声に出ていた。駄目だ…よりにもよって年下の子の前で動揺を表に出しちゃ…そうわかってはいても目線は自然と下を向き、握った拳には汗がまみれていた。

 

 

 

「ひとまず、櫻井さんがお元気そうで何よりです」

 

 

「えっ、ああいやその…」

 

 

 

俺は完全にしどろもどろになっていた。どう応じたらいいのかわからない。笑ってごまかせばいいのに、それすらできない状態に追い込まれていた。

 

 

 

「私の方は相変わらずです。朝起きて、学校に行って、講義に出て、日が暮れるまで勉強です。講義が終わったらサークルにも少し顔を出して、後は家に帰るだけ。面白いことも特にありません」

 

 

 

「そ、そうですか。いや、何というか…」

 

 

 

何か感想でも述べようかと言葉を探していると、タイミング悪く注文したコーヒーを店員が持ってきて目の前に置いた。それで思考が遮られ、ますます何を言っていいかわからなくなる。

 

 

 

「休日はときどき友達と遊んだりもしますが、まぁ正直言ってこれも特に楽しいというほど面白くありません。買い物したり、ご飯食べたり、お茶したり、映画やオペラを見に行ったりもしますけど、ほとんど付き合いみたいなものですね。表向きは楽しいふうに振舞ってますけど、帰ってくるとなんだか虚しいです。これで休日も終わってまた学校かと思うと余計に。たまに、学校とか休学して遠くまで旅に出たくなるくらい。江戸からはるばる奥州へ旅に出た松尾芭蕉のように。退屈な講義の時間はふとそんなことを考えたりしています。そういう日々です」

 

 

 

「は、はぁ…」

 

 

饒舌に、学生らしく、しかしどこか育ちの良さを醸し出すかのような品のある口調で話す彼女に、俺は完全に気圧されていた。そんなとき。

 

 

 

「ところで、櫻井さんはお仕事お辞めになられたんですか?」

 

 

 

唐突に、心臓を貫いてしまいそうな一言が俺を襲った。最も人に知られたくないことを、最も知られたくない人に知られてしまった。その現実が突きつけられる。元はといえば喪蛾の奴がペラペラ喋ったせいであって、あいつさえいなければ少なくとも彼女にバレることはなかったのに…だが今更どうしようもない。この期に及んで嘘やごまかしは通用しないし、正直に話すしかない。

 

 

 

「…はい、去年退職しました。数年勤めていましたが、自分には合わないなと思って…」

 

 

 

「そうですか、それは大変でしたね」

 

 

 

そう言って、彼女はコーヒーを砂糖も入れずに口にする。表情を見た限りでは少なくとも軽蔑はされていない印象ではあるが、言葉とは裏腹に同情しているような様子もなかった。こういう反応をされるとこちらもどうしたらいいのかわからない。ただじっと黙っていることしかできなかった。

 

 

 

「今の時代…いえ、今の世の中は大変な不景気です。失礼ですが、次の仕事を探そうにも思うようにいかないのでは?」

 

 

 

それは半分当たっていて、半分は違っていた。確かに今の俺が次の職を探したところで、とてもじゃないが見つかるとは思えない。が、もはやそういう次元の話ではなく、職を探すことさえ諦めてしまっているというのが現実だった。もっと言えば最初から諦めていたのかもしれない。けどこんなこと吉川さんに言えるわけがなかった。

 

 

「すみません、さすがに失礼でしたね。どのような選択をし、どのような進路を選ぶかは櫻井さんがお決めになることです。他の誰にも強制はできません。誰一人例外なく、全ての人は自由なのです」

 

 

 

「い、いえ、失礼なんてことは…」 

 

 

 

「会社をお辞めになったことを後ろめたく思ってらっしゃるのであればお気になさらないことです。入って一年未満で退職というならいざ知らず、数年お続けになった上で合わないなと思ってのことであれば既に義務は果たしています。私から言えるのはそれぐらいですが、元気を出してください」

 

 

 

「…ありがとうございます」

 

 

 

俺は内心少しホッとした。会社を辞め、次の仕事のあてもなく、あまつさえあんな喪蛾のような男とパチンコに興じていたのだ。普通の女の子なら、ウケる~とか言われてネットに晒されかねないところだ。彼女がまともな子で本当によかった。

 

 

 

「ふぅ…」

 

 

 

そこで話し疲れたのか、吉川さんは頬杖をついて窓の外を眺める。夕日に照らされた顔はどことなく憂いを秘めたようだった。どうしたんだろう…何か声をかけようか、それとも黙っておいたほうがいいか…ひとまず渇いた喉を潤すためにコーヒーを一口飲む。思った以上に苦くて顔をしかめそうになるが、我慢した。

 

 

 

「それにしても、今年は不吉なことが続きますね、櫻井さん」

 

 

 

「は、はい」

 

 

 

窓の外を眺めながら急に話し出す彼女に、俺は思わず意味もわからないままはいと返事してしまった。不吉なこと…待てよ、そうか、某県で起きた震災とか、そういう話しか?たぶんそういうことだろうが、憂いを秘めた彼女の表情からは何を考えているのかいまひとつ掴めない。何か気の利いたことを言おうにも言葉が思いつかなかった。

 

 

 

「この国はこの先どうなってしまうのでしょうか。運命の2025年も、もう来年に迫っているというのに」

 

 

 

「え、えっ…?」

 

 

 

運命の2025年…いきなり意味のわからない言葉が飛び出し、俺は当惑した。いったい何のことだろう…

 

 

 

「あ、あの、運命の2025年って…?」

 

 

 

「ああ、失礼しました。櫻井さんは2025年問題って聞いたことありませんか?」

 

 

 

2025年問題…?2025年…どこかで耳にした気はするが、何のことか俺にはさっぱりだった。けど知らないと言うと何だか格好悪いので、どう言ったものか迷う。

 

 

 

「ええと、何だったかな、確かテレビで…」

 

 

「簡単に言うと、2025年には団塊の世代と言われる人たちが75歳となり、社会保障費などが増大し税収を圧迫するという問題です」

 

 

俺の言葉を遮って吉川さんがそう述べた。

 

 

 

「社会保障費の増大によって、国民一人あたりの負担はますます増えていきます。年金、医療保険料はさらに上がるでしょう。過去と現在を比べてみても、平成元年から令和五年で年金保険料は倍になっています。さらに、社会保障費を賄うために税金も上がっていきます。今政府は表向きは減税と言っていますが、来年からはそんなことも言っていられなくなります」

 

 

 

…つまり、団塊の世代が高齢化することで社会保障費が大幅に上がり、個人の負担はどんどん増えていくし将来的に増税もあるってことか…?俺は彼女の言葉を頭の中で反芻し、繰り返す。頭の良くない俺でも、なんとなく理解はできる話だった。

 

 

 

「政府は今後、増税と合わせて年金支給年齢の引き上げも行うでしょう。現在でも高齢者が働かなければならない世の中になりつつありますが、今後はさらにそれが加速します。今後は、歳をとっても新しいことを覚えたりスキルを伸ばす努力が求められることになります。そして、社会保障費の削減、年金支給額の引き下げや高齢者の窓口負担の増加、生活保護費の引き下げもあるでしょう」

 

 

 

生活保護費という言葉に、俺はギクッとする。つまり俺は今もらってる雀の涙ほどの保護費を削られるってことか…?しかも来年から…?今ですらギリギリなのに。

 

 

 

「他にも、医療介護需要の増加、労働人口の減少による国や地方の税収減、認知症の増加、地方の衰退など課題は多く言い出せばきりがないほどですが、この国にもはや明るい未来はないといえます」

 

 

「…」

 

 

 

俺は何も言えず下を向くしかなかった。社会問題について淡々と正確なことを語るのは学生にしてはすごいことなのだろうが、聞いていて暗い気持ちになる話ばかりで、しかもこの国に明るい未来はないとまで言われたらもうどう反応したらいいのかわからない。

 

 

 

「これが、あと一年先に迫った2025年問題です。もっとも、これは大学の講義で教授が言っていたことをそのまま説明しただけですけれどね」

 

 

 

ふふふ、と笑顔を見せる吉川さん。そうか、大学でそんなことを習ったのか…俺なんて教授が言ったことなんて右から左に聞き流してすぐ忘れていたけどな…頭の良さとか、勉学に対する意欲の違いだろうか。けど、待てよ…

 

 

「あの、質問してもよろしいですか?」

 

 

 

俺は彼女に問いかけた。

 

 

 

「はい、どうぞ」

 

 

 

「その、2025年問題についてどういう対策をすればいいのか、教授は何と言われたんですか?」

 

 

 

素朴な、しかし重要な質問だと自分では思う。ただ日本は駄目だ駄目だと言われたところでどうしたらいいのかわからない。一体どうすれば2025年問題が解決できるのかぐらいは教えてほしいところだ。

 

 

 

「先ほど説明しましたが、政府は増加する社会保障費を賄うために増税や保険料の引き上げ、さらに年金支給年齢の引き上げや支給額の引き下げといった社会保障費の削減といった手段で対策をするものと思われます。個人ができる対策としては、なるべく健康に気を遣い労働寿命を延ばすこと、歳をとっても新しいことを覚えたりスキルを磨くこと、などが挙げられます。残念ながらこの問題に対する特効薬はありません。少しでも今の社会を延命させるための対症療法しかないのです。その代わり、これから先この国がどんどん弱っていくことになるとしても」

 

 

 

俺は再び視線を落とす。それじゃもう八方ふさがりじゃないか。増税だの保険料の引き上げだの、そんな政治の決めることには俺なんか絶対にタッチできないし、健康に気をつける?不摂生ばかりしてる今の生活を変えられるとはとても思えない。まして新しいことを覚えるとかスキルを磨く生活とは程遠いところにいる。こんなのは解決策になっていない。ただ気分が沈むだけのお説教だ。けどこれも教授が言ったことなら仕方ないんだろうな…吉川さんが悪いわけじゃないし。

 

 

 

「でもね、櫻井さん」

 

 

 

ふと、吉川さんが少しこちらに身を乗り出して声をかける。俺は思わず彼女の目を見た。どこか冷たく、しかし笑みをたたえた目だった。

 

 

 

「希望は必ずあります。だから決して絶望せず、希望を持ち続けてください。ほんのわずかでも希望の灯を絶やさなければ、必ず道は開けます。今私が話したのは悪いニュース。悪いニュースの後には良いニュースが続くものですよ」

 

 

 

「よ、良いニュース…?」

 

 

 

いったいそれは何だ?問題は山積し、増税に保険料の値上げ、年金支給時期も遅れ、今もらっている虎の子の保護費さえ来年から引き下げになるかもしれない。それで対策はほぼ無きに等しい。こんな状況でいいニュースなんてあるわけが…

 

 

 

「けど、今はまだ櫻井さんにこれを伝えることはできません。申し上げてもきっと理解できないからです。今はただ希望を持ち続けてください。そして、もし希望を持ち続けることができるのであれば」

 

 

 

そう言って、かすかに彼女は微笑む。

 

 

 

「4週間後、またここで会いましょう。今日はこの後寄るところがあるのでこれで失礼します。あっ、お会計はこれで支払っておくので」

 

 

 

そう言ってスマホ画面に表示されたカードを見せる吉川さん。彼女はゆっくりと席を立って、レジで会計をして店を出て行った。俺は何も言えず呆然とその様子を見ているだけだった。

 

 

 

どのくらい経ったのか、我に返ると俺は店を出て宛もなくただ歩いていた。目の前に一軒のコンビニがあったので、俺はふらっとそこに立ち寄って酒を一本だけ買った。そして店を出ると酒の蓋を開け、勢いよく飲み下す。飲んで、飲んで、中身がもう残り少なくなったところで。俺はいきなり缶を店の前にあった花壇に思いっきり投げ捨てた。

 

 

 

…くそっ!何が話さなくちゃならないことがある、だ。結局あの子に押されて、リードされただけじゃねーか!

 

 

俺は情けなさに物も言いたくなくなり、ただ自分がぶん投げた空き缶を睨み付けるだけだった。