邂逅 | 文芸部

文芸部

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それから数日、俺はいつものように出勤途中の電車に揺られていた。朝の時間とはいえ田舎なので乗客は少ない。特に俺が乗っている車両はガラガラだった。都会のように満員電車ですし詰めにされなくてもよいのはせめてもの救いだが、これから仕事だと思うとやはり憂鬱さのほうが勝っていた。

 

 

 

会社に行きたくない。出勤途中に考えることはいつもそればかりだ。いや、正確に言えば朝起きた時点でそればかり考えている。会社に行きたくないという気持ちを押し殺して起き、洗面朝食着替えをして、家を出る。毎日そんな調子で、一日として変わったことがない。まるで無限ループのように同じことを繰り返しているだけ。遡れば、入社したときからずっと変わっていなかった。

 

 

 

そんなに行きたくないなら休めばいいと思ったことはある。しばらく休みをとって、リフレッシュして気持ちを切り替えれば何か変わるのではないかと。そう思って、一週間ほど休んだことがこの三年で二度ほどあった。けど駄目だった。いくら休んでも、休みが終わって会社に行く日になるとやはり以前と同じように会社に行きたくない。休む前と後で気持ちの変化など一切なかった。休みを取ってみてもなんの意味もなかったのだ。

 

 

 

結局どっちにしろ会社に行きたくない。気持ちの切り替えなど最初から無理だったということに三年経って気づいた。今の俺は壊れたスイッチのようだ。ボタンをオンにしてもオフにしても、どっちにしろ点かない。この今の現実そのものが、とっくの昔に破綻、壊れてしまっているのだ。きっと、会社をやめない限りこの状況はずっと続くだろう。しかしそれができないことはすでにわかっている。もともと選択肢などなかったのだ。そもそもの話、会社を続けるかやめるか、選べる人間は限られている。よほど金があるか、実力があるか、運がいいか。残念ながらそのどれにも含まれないのが圧倒的多数で、俺もその一人に過ぎなかったということだ。それなら諦めるしかないのだろうな。けど心の底から諦めるなんて、そんなのは無理だ。やっぱり会社には行きたくない。いっそのことクビにでもなったら楽なのかもな…ははは。

 

 

 

 

はあー、っと空を見上げながら大きくため息をついたちょうどそのとき、電車が停まる。俺が降りる一つ手前の駅だ。停車し、扉が開いて何人かの乗客が乗り込んでくる。電車が走り出すまでの間、俺は特にすることもなくスマホを取り出して眺めていた。すると、

 

 

 

「隣、いいですか?」

 

 

 

誰かに声をかけられた。女の声だった。

 

 

 

すぐに声のした方を見ると、そこにはカジュアルな私服を着て肩からショルダーバッグを下げた女が立っていた。歳は二十歳前後といった感じで、大学生ぐらいに見えた。少なくとも社会人には見えない。もちろん制服を着ていないから高校生でもあり得ない。たぶん大学生だろうな、と思いつつ「あ、はいどうぞ」と答えた。

 

 

 

女が席に座るのとほとんど同時に扉が閉められ、電車は再び走り出す。いよいよ次の駅で降りなければならない。そう思うと憂鬱で、思わずまたため息がこぼれた。そのときだった。

 

 

 

「これからお仕事ですか?」

 

 

 

隣に座っている学生らしき女が、おもむろに話しかけてきた。

 

 

 

「えっ…?」

 

 

 

一瞬面食らった。誰に言ってるのかわからなかったのだ。だが、彼女はまっすぐ俺の方を見て言っている。俺以外に言っていることはあり得ない。だから俺は、

 

 

「え、ええそうですよ」

 

 

 

そう答えた。するとすぐに学生も口を開く。

 

 

「すみません、なんだか疲れた顔してたから、大丈夫かなって」

 

 

 

なんだろう、この娘…俺が、疲れた顔をしてる?そりゃ今から会社に行くのに愉快な表情をしているわけはない。どちらかといえば疲れた顔をしているだろう。だが、だからといってなぜその疲れた顔をしてる奴に話しかけたりするんだ…?電車で隣に疲れた顔したサラリーマンがいたのが、そんなに珍しいか?

 

 

 

「私これから講義なんですけど、なんだか行きたくないなーって憂鬱だったんです。それで電車乗ったら自分と同じぐらい憂鬱そうな人がいたんで話しかけちゃって。ご迷惑じゃなかったですか」

 

 

「い、いえ…そうなんですか、学生さんなんですね」

 

 

 

適当に相槌を打ちながら、内心「変わった娘だな…」と思った。

 

 

 

「はい、あ、申し遅れました。私、セーラ女子大2年の吉川優です。お兄さんは?」

 

 

「あ…はい、やまと商事の櫻井証といいます。よろしく」

 

 

 

セーラ女子大っていえばここらじゃけっこう名門だな…しかし2年生なのか。どことなく大人びてるから、4年生ぐらいかと思った。まあ、口には出さない方が身のためだが。

 

 

 

「はい、よろしくお願いします。ところで櫻井さん、話は変わりますけど」

 

 

 

「…なんでしょう」

 

 

 

「よかったら、二人でサボってどっか遊びに行きません?」

 

 

 

彼女…吉川はいきなりとんでもないことを口走る。

 

 

「は、はい?」

 

 

 

「もちろん、櫻井さんが嫌ならいいですけど…私、今日はこのまま講義サボってどっか行こうかなって思って。でも一人じゃつまんないし、櫻井さんも一緒にどうかなって」

 

 

 

…なんなんだこの娘。何かの冗談で言ってるのか?講義をサボりたい、そこまではいい。けど、見ず知らずの俺とどっかに出かけるって…一体何を考えてる?訳がわからない…

 

 

 

「正直、ここだけの話ですけど、櫻井さんも会社、行きたくないですよね?」

 

 

 

会社…?そりゃ行きたくない。行きたいわけがない。家を出たときからずっとそう思ってる。会社というのは最悪の場所だ。大学生の講義なんて生ぬるいほどの苦痛と嫌悪感を感じる場所なのは間違いない。この俺が保証してもいい。

 

 

 

「そりゃ、まぁどちらかといえば行きたくはないですが…」

 

 

 

「それじゃ、無理して行かなくてもいいじゃないですか。だって、たぶんですけど無理して会社行ってもこんな朝から夜暗くなるまで働いて、残業もして、ヘトヘトになって、それでまたこの電車に乗って帰ってくるだけでしょ?そんな一日ってすっごく辛いじゃないですか」

 

 

 

うっ…それは確かにそうだ。このまま会社に行っても、まさにそんな一日が始まるだけだ。それはわかっている。何度も繰り返してきたから。

 

 

 

「まぁ、無理にとは言いませんけど。櫻井さんには櫻井さんの立場もあるでしょうし。けど、今日一日ぐらいいいんじゃないかなーと思いますよ?」

 

 

 

…本来であればこんな誘い、すぐに断るべきなのだろう。学生と社会人は違う。学生が気まぐれで講義を休むのとはわけが違う。社会人がさしたる理由もなく会社を休むなど、本来あってはならないことだ。普通はここは大人として、君は好きにしていいが私は大人だからそういうわけにはいかないんだよと答える。それが常識だ。けど、それが正しかったとして、大人として賢明だったとしても、そのあとにどんな結果がまっているのだろう?働いて、クタクタになって帰ってきて、ようやく家について、疲れた体を横たえながらきっとこう思う。ああ、疲れた。こんなことならあの娘がいってた通り、サボればよかったな、と。それが俺の望んでいることか?いや、違う。であれば、答えはもう決まっていた。

 

 

 

「…わかりました。私も今日は会社を休みます」

 

 

 

 

そうだ、今日一日ぐらいいいじゃないか。こんなチャンスは滅多にない。長い人生、時には横道にそれることも必要じゃないか。

 

 

 

「決まりですね。それじゃ行きますか」

 

 

 

吉川がパチンと指を鳴らすと同時に電車が次の駅に着く。俺は軽く頷くと、吉川と同時に立ち上がり電車を降りた。