フーバー回顧録の一節です。

 

「アメリカ政府は対日交渉の経緯を国民に隠していた。そしてその後の教育でも、何があったか歴史の真実を教えていない。だからこそ、対日交渉の経緯はしっかり書いておかなくてはならない」

 

 

昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で全く議題に入らなかった真珠湾攻撃によってアメリカの世論は完全に変わってしまいました。

 

それまで7割以上の人がドイツや日本に対しての戦争に反対していた世論が一気に参戦になりました。

 

「突然日本が真珠湾に奇襲攻撃をしかけた」、というような印象をアメリカ国民に与えたからです。

 

これによってアメリカ国民は自国の防衛の為に立ち上がりました。

 

1度このような攻撃を仕掛けてしまった以上、アメリカが参戦の方向に向かうのを止めることは出来ません。

 

つまり真珠湾攻撃はアメリカ国民を怒らせてしまっただけで、日本にはほとんどメリットはなかったわけです。

 

しかし、なぜこのような意味の無い攻撃をしてしまったかについてしっかり分析する必要があります。

 

 

当時の日米交渉の経緯と合わせて、真珠湾攻撃が本来の戦争戦略に入っておらず、なんらかの力によって想定外に行われてしまった事がわかれば、また別の視点を持つことが出来ると思います。

 

 

その頃アメリカ国内のニュース映画では、日本と中国の泥沼の紛争を日本が中国大陸で残虐行為をしていると報じていました。

 

日常的にそのようなプロパガンダといえるような放送をして反日感情を煽っていました。

その一方、日米交渉の深い中身については一切報じられていませんでした。

 

アメリカ政府の強行外交などもアメリカ国民は知らされていませんでした。

 

昭和16年10月18日に近衛文麿が内閣総辞職するまで、断続的に戦争回避の為の日米交渉はされていました。

 

しかし、もともとルーズベルト政権は戦争をしたいと思っています。

その為に対日石油全面輸出禁止等の経済制裁を強化しました。

 

そして、近衛内閣もどこまで真剣に戦争回避の為に交渉に臨んでいたのか、疑問があります。

近衛文麿の側近には共産主義者や国際金融資本家の手先が沢山いました。

 

共産主義者や国際金融資本家の手先は、ソビエトやアメリカのスパイのような存在です。

かれらの強い影響下にある近衛内閣が真剣に戦争回避を考えていたとはとても思えません。

 

下記、ブログ記事参照

近衛文麿を影で操っていた人達~太平洋問題調査会と朝飯会~ | 時間が無い人でもサクッとわかる現代社会の仕組み (ameblo.jp)

 

 

それまでの近衛内閣は、ことごとく日米関係が悪化するような政策決定ばかりしていたからです。

 

なので、この時期の日米交渉自体、あまり意味がなかったのではないかと思います。

近衛内閣によって、日米開戦のレールは完全に敷かれてしまったからです。

 

一般的には昭和16年11月26日に出されたハル・ノートが決定打のように言われますが、実際にはその時点で、戦争回避は不可能な状況でした。

 

ただそれらの交渉の事実は伏せたまま、突然真珠湾奇襲がなされたので、アメリカ国民の反戦の世論がひっくり返ってしまいました。

 

アメリカ国民も欺されたのです。

 

 

再びフーバー回顧録の一節です。

 

「1941年に入ると、宣戦布告なき戦争に匹敵する挑発行為をドイツに仕掛けはじめた。その数ヶ月後には、挑発は日本に対しても始められた」

 

「我が国が第二次世界大戦に参戦するまでに、その裏で何があったのかを白日の下に晒されなければならない。そうしてこそ初めて、なぜ我が国が参戦してしまったかについての最終的な歴史を書くことができる」

 

 

近衛内閣は政治的に日米関係を悪化させる事には成功しました。

昭和16年10月18日に日米開戦のレールをしっかり敷いた所で、近衛内閣は総辞職します。

 

しかし、日本に最初の一撃を打たせるためには軍部を動かさなくてはなりません。

この部分の工作が成功しなければ、アメリカ国民の世論を変えることは出来ません。

 

 

当時の日本の戦争戦略の立案は、陸軍は「参謀本部」、海軍は「軍令部」が担っていました。

そして戦争戦略は最終的に大本営政府連絡会議で正式決定します。

 

その大本営政府連絡会議で真珠湾攻撃について全く議題に上がっていませんでした。

 

当時の軍令部のトップは永野修身軍令部総長です。

彼は大本営や陸軍には知らせず、密かに真珠湾攻撃の計画と訓練を開戦1年前から行っていました。

 

しかし、この作戦は海軍内では大反対でした。

 

にもかかわらず、軍令部総長という立場を使って彼は昭和16年11月3日に真珠湾攻撃の裁可を下しました。

 

しかし、その後開かれた昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議には議題に載せませんでした。

反対されるのが分かっていたから、あえてのせなかったと思われます。

 

そして、現場のトップである連合艦隊司令長官が海軍の指揮を行います。

実際に真珠湾攻撃を実行したのは山本五十六連合艦隊司令長官です。

 

永野、山本がゴリ押しするような形で真珠湾攻撃が実行されました。

 

この永野、山本ラインにかなり工作が入っていたと考えられます。

 

つまりアメリカ側の工作を受けつつ、それに同調してしまう勢力が日本国内にいたことは否定出来ない事実です。

 

戦後、巣鴨プリズンでの永野修身の不可解な証言を考えるとかなり整合性がとれます。

 

東京裁判の検察尋問で、なぜ真珠湾攻撃を許可したのか問われた時、全く合理的な説明がなされていないからです。

暗に言えない理由があった事がうかがい知れます。

 

そして、永野修身は巣鴨プリズンで、不可解な最後を遂げています。

 

結局なぜ永野修身が真珠湾攻撃を許可したのか、合理的な説明はなされないまま、闇に葬られてしまいました。

 

 

最後に再びフーバー回顧録の一節です。

 

「真珠湾の事件は、我が国の参戦を狙う勢力にとっては、参戦を渋る議会の束縛から解放され、戦いに消極的な国民を戦争に導くための口実となった。真珠湾事件は、目に見える最初の日本との戦いだった。しかし、ルーズベルト政権が仕掛けていた秘密の戦争という視点からすれば、その日本に対する秘密の戦争の最後の戦いであったと言える。秘密の戦争は、我が国の指導者が敵と決めた国との戦いである。どの国が敵かは、宣戦布告によって公式に敵国となるずっと前から決められていた。秘密の戦争は、敵国に仕掛けられるだけではない。プロパガンダや嘘の情報を流し、国民世論を操作しようとする。つまりアメリカ国民に対しても仕掛けられているのだ。我が国の外交は、実際には戦争行為と変わらないものであっても、我が国が戦争しないための方策だと言い換えられた。戦争するためには憲法の制約があるが、その制約も上手に回避した。日本に対する宣戦布告は議会が行なったが、この時点では戦争になっている状況を追認するだけの意味しかなくなっていた。」

 

 

※参考文献