大東亜戦争の時期の日本国内の政治状況について語る上で近衛文麿の存在は避けて通れません。

 

なぜなら、彼の組織した内閣は日米開戦のレールを敷く上で非常に重要な決断をしているからです。

 

1937年6月、第一次近衛内閣が発足します。

1937年7月、北支派兵を決定する。

 

1938年1月、「国民政府相手にせず」と声明を出し、中国との紛争が泥沼化していきました。

1938年3月、「国家総動員法」を可決し、統制を強化して総動員体制を確立しました。

1939年1月、内閣総辞職。

 

1940年7月、第二次近衛内閣が発足して、「大東亜共栄圏構想」を打ち出しました。

1940年9月、日独伊三国軍事同盟を成立させます。

 

1940年10月、「大政翼賛会」を発足させ日本の政党政治は完全になくなりました。

1941年7月16日、ソビエト攻撃論を主張する松岡洋右外務大臣を更迭する為に内閣総辞職。

 

1941年7月18日、第三次近衛内閣発足

1941年7月28日、南部仏領インドシナに進駐しました。

 

このインドシナへの進駐によってアメリカは対日石油全面輸出禁止等の制裁強化を行います。

 

これらの決断は対米戦争へ向けてのレール作りと思われても仕方のない決断です。

 

また、アメリカ側からみると日本へ強行外交をとる格好の理由付けとなります。

 

つまり1941年10月に近衛内閣が総辞職する時点で既に日米関係は戦争が避けられないほど、悪化していたのです。

 

その後の東条内閣は敷かれたレールの上を進むしか道はありませんでした。

 

そして、1941年12月の真珠湾攻撃へ至ります。

 

しかし重要なのは、これらの日米関係悪化の原因を作った決断にどのような人物が関わっていたかです。

 

 

近衛は、共産主義者や国際金融資本家の手先を自分の近くに置き登用していました。

 

国際金融資本家の手先は、主に太平洋問題調査会(IPR)という民間のシンクタンクで重要なポストをしめていました。

 

その中でも牛場友彦はIPRの国際事務局員として活躍し、常に近衛文麿の側についていました。

 

近衛は私設秘書として牛場を登用し、絶大な信頼を寄せていました。

 

しかし、IPRはロックフェラー財団が資金を拠出しており、実質的にはアメリカの外交方針を決めるほど大きな力を持っていました。

 

民間版国際連盟と言われるほどでした。

 

つまり牛場友彦は近衛に忠誠を誓っているようで、実はロンドンシティーやウォール街に忠誠を誓っているスパイのような存在だとみることが出来ます。

 

また、牛場友彦の親友で白洲次郎という人物がいましたが、彼もIPRの京都会議に参加し近衛文麿との関係を深めていきます。

 

同じく松本重治という人物もロックフェラー家と親交をもちIPRを通じて日本での活動のキーマンとして活躍します。

 

近衛は「朝飯会」という政策研究会を作り、彼ら国際金融資本家の手先といわれる人物を身近に引き入れます。

 

もちろん「朝飯会」の中には共産主義者も沢山参加しており、相互に連絡を密に取り合う関係が築かれていました。

 

つまり、国際金融資本家と共産主義者が近衛に政策面で重要なブレーンとなり日米戦争へのレールを敷く重要な役割を果たしていたのがこれらの客観的事実からわかります。

 

ソビエトの共産主義とアメリカの国際金融資本家、そして朝飯会のメンバーを中心とする近衛の政策ブレーンは太いパイプで繋がっていたのです。

 

近衛自身は取りまとめ役として彼ら政策ブレーン集団に担がれていましたが、近衛自身がこれらの人脈を使って何をしたかったのかはよくわかっていません。

 

近衛文麿は完全に共産主義に染まっていたわけでもなく、国際金融資本家の手先というわけでもありませんでした。

 

実際何がしたかったのかはよくわかりませんが、これら海外勢力のスパイと思われる人物を身近に引き入れ上記で記載したような日米関係が悪化するような政策決定をしていたのは事実です。

 

そして近衛のブレーン達と国際金融資本家、国際共産主義者達は連携して、

 

「日本に最初の一撃を撃たせる」

 

工作を綿密に計画していたと考えられます。

 

 

これらの人脈を使って主に日本海軍に工作が行われていたと考えられます。

 

なぜなら真珠湾を奇襲したのは日本海軍だからです。

 

アメリカ国民の反戦の世論がひっくり返ったのは、真珠湾攻撃によってです。

 

つまり真珠湾攻撃はアメリカが第二次世界大戦に参戦する格好の口実になってしまったのです。

 

今までの歴史教科書では日本陸軍が悪玉のように語られてきましたが、真珠湾を攻撃し、ミッドウェー作戦を実行したのは海軍です。

 

太平洋でアメリカ軍と戦っていたのは海軍なのに、なぜか、東京裁判では陸軍関係者ばかり戦犯として裁かれています。

 

工作を受けていた主な海軍関係者に裁判に出てきて、下手な証言をされては困ると考えられたと思います。

 

実際、真珠湾攻撃を指揮し、海軍艦隊の最高司令官だった山本五十六は前線を視察中にアメリカ軍から撃墜されて戦死するという、現実的にありえないような最後を遂げています。

 

常識的に考えて、現場の司令官が視察中に撃墜される事は不自然です。

 

アメリカ軍は事前に山本五十六が視察にくる事を知っていて意図的に消したというのが大方の見方です。

 

また、真珠湾攻撃の裁可を下した永野修身は戦後、巣鴨プリズンで不可解な死を遂げています。

その前の検察からの尋問にも不可解な証言を残しています。

 

真珠湾攻撃が、ほんとうに自らの信条に従って行ったのであれば、堂々と証言出来るはずです。

 

しかし実際は異なるので、口封じのために消されたと考えられます。

 

そして、山本五十六を連合艦隊司令長官に任命した米内光政海軍大臣は東京裁判史観を作るのに都合のよい証言を戦後裁判で述べています。

 

つまり陸軍悪玉説です。

 

意図的に嘘の証言をするようにけしかけられたと考えられます。

 

 

これらは一本の線で繋がっています。

 

忠実に歴史をひもとくと、不可解なように見える事実も綿密な計画のもとになされたと考える事が出来ます。

 

つまりは誰が目的を達成して1番得をしたかです。

 

このあたりの海軍への工作について示す明確な資料はありませんが、事実から類推する事は出来ます。

 

皆さんは、「そんなに物事が都合よくいくか」、と思うかもしれませんが、しかし、工作は何度でも仕掛ける事が出来ます。

 

たまたま真珠湾奇襲は成功しましたが、何かの都合で上手くいかなかった場合、別の工作を仕掛ければよいのです。

 

工作自体は失敗すれば何も証拠は残らないので、失敗は何度してもかまわないのです。

 

特に、自分達を攻撃するように仕掛ける工作ほど簡単なものはありません。

 

裏切りを進めるような工作よりずっと簡単だと思います。

 

敵対国の上層部に、自分達を攻撃するようにけしかけられて、もし失敗しても、大きなリスクはないはずです。

 

攻撃する方はそれほど大きな代償を払わなくてもよいと、短絡的には思うのではないでしょうか?

むしろ自らの保身の為に甘い誘惑に乗ってしまう人の方が多いような気がします。

 

しかし、長い目でみると、これは大きな代償を払うことになりますが・・・・

 

このように工作は二重、三重になされるもので、仮に真珠湾奇襲が上手くいかなくても、新たに別の工作をすればよいことです。

 

真珠湾がダメなら、次はミッドウェー奇襲をけしかける。

 

それがダメならシンガポールやアッツ、ラバールだという風に・・・・

 

また別の日に真珠湾を奇襲させるように工作する事も考えられます。

 

ルーズベルト政権の目的は日本に最初の一撃を撃たせる事です。

そしてアメリカ世論を参戦に向かわせる事です。

 

その目的を達成するまで、何度でも工作活動は続けられます。

 

だから、この戦争は始めから「仕組まれた戦争」だと言うことが出来ます。

 

日本は日米開戦というレールの上を進むしかなかったのです。

 

 

※参考文献