20年前の1993年4月1日、YTS山形テレビが当時のフジテレビ系から現行のテレビ朝日系へネットチェンジする日本最後にして異例のネットチェンジが行われ、当時の視聴者から反感を買われた反面、事情を知る者は「遂にこの時が来たか」と思った事でしょう。前編ではフジテレビ系時代の動きを纏めます。



山形の有力者に目を付けられた事が不幸の始まり

かつて、山形には山形の天皇と呼ばれた有力者・服部敬雄と言う独裁的な権力者がおり、「山形のナポレオン」、「山形のヒトラー」の異名通り、マスメディアや交通を都合良く弄り、山形の全て思いのままに操りました。


1969年山形第2の民放局の免許が交付され、本来なら服部の山新グループとは別なマスメディアとして、当初、NET(現・テレビ朝日)系のシングルネット局として開局する予定で、朝日新聞や毎日新聞が出資していたほか、開局前の研修もNET(現・テレビ朝日)やMBS・毎日放送で行っていました。

JNN・TBS系列への加盟は地元紙の出資が条件で、テレビユー山形はダミー申請の名残などもあり山形新聞が出資しています。山形新聞の資本を排除するはずだった山形テレビがNET系とTBS系のクロスネットで開局する予定だったのはデマです。

KSB・瀬戸内海放送はNET(現・テレビ朝日)系のシングルネット局で開局する予定でした。山形テレビも山形新聞の資本を排除した上で、NET(現・テレビ朝日)系のシングルネットで開局する予定でした。

処が、服部に調停を持ち掛けたら山新グループに組み込まれただけでなく、当時懇意だった鹿内信隆会長との中でフジテレビ系にされてしまい、株主の朝日新聞と毎日新聞は蛇の生殺しの憂き目に遭いました。
なお、開局当初から現在まで続く山形県の主要者が発言する「提言の広場」は非常に有意義と言えます。

それでも諦めなかった朝日新聞
それでも株主の朝日新聞は諦めず1975年にYTSも一度はクロスネットながらNETとフジテレビのネット化を果たします。しかし、朝日新聞の影響力の増大を恐れた服部は1980年にYTSを再びフジテレビ系列単独に戻し、YBC山形放送を日本テレビとテレビ朝日のクロスネットにし、YTSにも日本テレビ系の番組を放送させ、YBCもYTSも何処のネット局の言い成りにならない様に編成を操作しました。
一番酷かったのが日曜ゴールデンの編成で、YBCがテレビ朝日の番組を放送した為、YTSは日本テレビの番組を放送せざるを得なくなり、トバチリを受けたフジテレビ日曜ゴールデンの番組は一日遅れの月曜夜に放送する羽目になりました(つまり、あだちアニメは金曜19時半で、キテレツ大百科と世界名作劇場は月曜夜19時の放送でした。)
1981年の改革以後、フジテレビは視聴率トップに立ちテレビ界の無敵の王者として、1994年まで君臨し続けていました。
また、なるほど・ザ・ワールドは当初こそは同時ネットでしたが、85年以降編成上の都合で遅れネットの放送となり、特番ながら「なるほど・ザ・ワールド山形」が製作・放送され、当時3局以下のFNS地方局に於ける製作能力の高さを見せ、将来を明示していました。

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後々の出来事を暗示していたYTSスーパータイムのOPタイトル
運命を狂わせたFM山形とTUY開局
昭和末期の1985年、山形マスコミの異常性に郵政省と電波管理局は重い腰を上げ、山形第三民放局はの構想が上がり、山形FMラジオ局と第3民放局の免許をそれぞれ交付し、山形第三民放局には159件の免許申請があり、免許申請者の中には山形新聞のダミー申請も含まれていました。

 山形第三民放局と山形FMラジオ局は山形新聞もダミー申請を行ったものの、マスコミ資本集中排除の原則を前に資本参入は叶わず、FM山形が平成元年春に、同年秋にテレビユー山形がそれぞれ開局し、テレビユー山形のキー局はYBCで進出に失敗したTBSとなり、山形の民放は日本テレビ、フジテレビ、TBSの三系列となりましたが、服部は開局の経緯からFM山形とTUYに山新グループのCMを一切流さない報復を行いました。

これに対し服部はYTSにバイオ科学研究所の設立を始め、ハリウッド映画の製作出費、クルーガー金貨の発行、OVAの製作と東名阪テレビ局も真っ青な多角経営を命じますが…。

 
服部敬雄の死去とフジテレビに見捨てられるYTS
しかし、多角経営は軒並み失敗し、多額の負債が溜まり、最終的には当時25億円にも上り、失意のまま服部は91年3月14日に生涯を終えました。
服部の死去前後からYTSはフジテレビに経営支援を要請しますが、銀行出身のフジテレビの鹿内宏明会長はそれを拒否し、服部の死後YTSの経営陣が交替し、バイオ科学研究所を閉鎖したYTSは絶対絶命の危機を迎えました。
 
 
YTS経営陣の決断と日枝クーデター
決定打となったのは、92年6月にYTSの当時の社長と会長を「経営悪化の責任」を理由に解任し、朝日派の社長を据えた事と、92年7月22日の宏明会長失脚・日枝久社長就任のフジ・サンケイグループのクーデターで、日枝社長は体制固めに注力し、YTSへの経営支援は宛にならないと判断。
そこで、山形テレビの筆頭株主だった相馬大作元酒田市長はあるウルトラCを考え、テレビ朝日へのネットチェンジを提案、呆気なく通るのでした。

テレビ朝日も「うちとYBCのネット関係はどうするのか?」とYTS関係者に質問したほどでした。
これに対し相馬氏は「元々はYTSはテレビ朝日の前身NET系になる筈が、服部氏の横槍でフジテレビ系列にされてしまった」と釈明。
当時のYBCよりも条件が改善されるシングルネットで組む事で合意。負債解消と経営再建を望むYTSと当時ネットワーク拡大運動を展開し、一つでもネット局を増やしたいテレビ朝日にとっても願っても観ない申し出で、このネットチェンジ再建案が通るので、服部元会長が生前恐れていた事が遂に起き、史上稀に見るネットチェンジが実現する事になりました。

YTS社内でもフジテレビ系からテレビ朝日系へのネットチェンジを疑問視する声が挙がり、「どうしてフジテレビ系を脱退する必要があるのか?」や「テレビ朝日系に移れば経営再建出来るのか?」とネットチェンジを疑問視するYTS社員もいたほどでした。

これを知った日枝社長は「何故一言言ってくれなかったんだ!」社長室で嘆き、後のSAYさくらんぼテレビ開局の原動力となりました。
こうして93年4月1日から山形テレビはテレビ朝日系へネットチェンジが決まりましたが、23年間慣れ親しんだフジテレビの番組が観られなくなるのは視聴者から見れば理不尽な行為でした。
死人に鞭を打つ様ですが、この事態を招いたのは服部と存命ですが宏明会長で、服部会長は山形の独占が崩れる事を恐れたのと、独占で自らの体力を見誤り無茶な多角経営を行い、宏明会長もまた地方局を軽視し、YTSを救う必要はないとの判断と地方局は地方局で解決しろとの姿勢とYTSの体力と体制を見誤ったのが誤算でした。