お寺も神社も教会も、更にはモスクも、祈る場所には神々しさを感じます。
祈る姿は万国共通。無になり、愛を捧げる姿は美しいです。
しかし、人生には沢山の登場人物があり、その中で葛藤し、傷つき、苦悩があるのも真実です。
私が最近思う事は、全ての道は、完成までの完璧なプロセス、過程だけがあり、自他共に罪が無いと言う事。
また、先祖に、一切の罪無しと言う事が、最大の愛であり、慈しみである事。
罪が無いと言う事は、恐怖と不安にかられる人もいるでしょう。
先祖のせいで貴方の今の苦しみがあると学んだ人は尚更です。
先祖を敬う事は、一切の罪を自分からも人からも無くす事、私はそう思います。それが真実供養であり、自分の一族を輝かせる事です。
過去でも未来でも無く、今ここを、存分に光輝かせる事です。
命がけで、先祖も、過去の自分も、愛のバトンを貴方に渡した。そしてそれに膝を折り、感謝しながら今を生きる事が、本当の命です。
何故ああした、どうしてああなった等、貴方の議論する場所では決してありません。
全て神様の流れです。栄光への過程です。私達が今、判断する事がどれだけ的外れなのか。
貴方の分析判断は、一種の甘えであり、依頼心であり、愛の無さです。
罪を手放せば、解放が起こり、目覚めと愛は広がります。
沢山の人は、反省と罪悪感が自分を立派な場所に押しやってくれると勘違いしています。
人に必要なのは静かな魂の中の目覚めであり、貴方の反省ではありません。
反省と罪悪感は、貴方を愚かにし、聖なる力を全て押し込み、失敗を繰り返させ続けるのです。
反省が足りないから、失敗を繰り返すのではありません。反省し過ぎるから、失敗を繰り返すのです。
貴方に罪は一切ありません。人も、貴方もある意味正しい!
そして、祝福は、貴方がした分受け取るのです。
貴方が相手や世界を祝福せずに、愛さずに、貴方だけが先方から愛を受け取れるなんてありえません。
でもエゴ、自我はそれを求めます。
そしてなんとか世界をコントロールしようとすればする程、苦しいのです。
貴方は愛されている安らぎからどんどん離れ、怒りや悲しみのモンスターになってしまいます。
しかし、思い出してください。
あなたは常に救われ続けているという事。
貴方には完全に神様から正しさと高貴さには承認を得ています。愛を100パーセント常に毎秒受け取っているのです。
誰に泣きながら頼らなくても良い程、溢れんばかり。
そして、貴方の世界や人への祝福は、必ず神様からの答えとして、愛として、行く道として、返礼があるでしょう。
石ころが無い人生を歩かせてもらえる訳ではありません。
しかしながら、己の道に繋がる時の頼もしさや溢れる喜びは、何ものにも変えがたい力になるのではないでしょうか。