災害に思う | 雲の呟き

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能登の被災地情報を見て。


もともと過疎地であってインフラが途絶えていて孤立している集落で壊れて住めない家屋に留まっている被災者の生活再建に何千億も国費を使って救済することを疑問視するという論説を先日読んだ。


確かに大局的に人口の減っている我が国では今後近未来的には人口は分散より集約方向に向かう可能性が高い。


都市にインフラを集中して巨大な集合住宅みたいなもので都市ごとドームみたいなものに入って冷暖房完備みたいなアニメのような都市が幾つかあるだけみたいなことに数世紀のうちに人類は移行するのかもしれない。


だけど個人所有を認める民主主義国家ではなかなかそれは難しいので時間もかかる。


日本人のような農耕民族はなかなか土地と離れて生活域を変えるのは無理ではないがハードルが高い。


振り返って自分は今からどっか別の土地でも国でも変えて暮らしていけるか?考えていた。


生活のための仕事や組織から解放されて、子育ても終わりひとりきりになった自分を俯瞰するといったい自分の人生って価値のあるものだったのか?もしそうならこれからもそれを創造できるのか?


という課題がよぎる。


贅沢な話だ。


生活するのがいっぱいで汲々として働いて稼がないといけないならこんな悩んでいる意味はない。


自分にとって価値あるもの、ことというのはやってみると実はとても一過性で価値が乏しいことが多い。


それより自分の価値は他者が決めてくれてる承認欲求の方が満足度が多い。


世の中のSNSの人気はそこを突いているだけ。「いいね」「バズる」はその典型。


誰もが自分のアイデンティティを求める。


その要因の中に土地、居住している場所があり、地域であり、社会だと思う。


それを捨てて新たに別の場所で新しい生活圏を築くのには時間も耐力も要る。


何もかも捨てていくことはそれまでの自分自身も捨てることに近い。


高齢者には厳しい選択になる。