信仰と形式 | 雲の呟き

雲の呟き

流れる雲のように、浮かんでは消えていくものの名残を文字にしています。
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悪しからず御理解願います。

ネオに起こされて思い出したこと。

 

何かを信仰するとか自然観を持つことは重要だと思います。

 

私も若いころ人生を苦に思い悩んだころがありました。

 

そんなときご縁があって参禅を重ねたことがあります。仏教にすがったというか形から入ったというか。

 

「座る」こと自身は形です。

 

しかし形より大事なのは「息」でした。

 

その時師事した住職は仏法をくどく説くわけでもなく、ただそれだけを伝えただけです。

 

今のような暑い夏のことでした。

 

早朝座るのですが、本尊を背にして寺の庭に向かい、座るのです。息を整えてじっとしているとすでに蝉がやかましく鳴いていました。

 

そのうちいろんな雑念がおきます。やかましかったり、思い出すだけで辛いことだったり、たいてい心配事です。

 

じっとしているのも苦痛ですが呼吸に集中していると、そのうち自分がそこにいることを忘れるようになります。

 

意識だけが残るということでしょうが、周りに溶け込んでしまうような大げさにいうと宇宙と一体となったような錯覚を覚えます。

 

ま、現実自我の存在自体、宇宙の一部ですからそれを普段知覚していないということなだけですから。

 

「息をする」とは言葉どおり「生きる」こと。

 

そうしているうちに座らなくても気持ちを整えることが何をしていてもできるようになります。

 

マラソンなんか一番その感覚に近い。一人ですし、呼吸が大きいので当たり前集中してます。「走禅」だという人もいます。

 

何かに無心に気持ちを注いでいるときはすでに禅の世界、「心に単」で禅ですから。生活禅というのだそうです。

 

いつまでも忘れないもんです。