現役時代に夢だったトライアスロンやウルトラマラソンに参戦、長年苦労を共にしてきた女房と夢だったホノルルマラソンにも行くことができたし、やり残したことと言えばそれぞれの結果に対する向上なのだろう。
毎日愛犬と過ごし、好きなトレーニングをやり、起きたい時に起きて、寝たいときに休む。人は悠悠自適と羨んでくれる。
しかしこれがゴールか?
今日は病院だった。平日の午前。周りは私よりは一回りは上の先輩方ばかり。誰もが例外なく生き、老い、病になってここに流れてくる。

ここにいていいのかな?病気だから当たり前か?はたまた私も充分年寄で世間様には無用なのか?
2度目の秋風が吹き、自分を駆り立てるものが無くなっていると感じる。
欧米人はよく老後を謳歌するイメージがあるが、無期限の休息ほど退屈な事はないと感じるのは日本人くさい自分の貧乏性のためか?
日曜の夕方に月曜からの仕事の憂うつに潰れる事をサザエさんシンドロームというが、明日も来なくていいよと言われるよりましなハズだ。
金は無くてはならないがそれがすべてとも思えない。物が幸せにしてくれるわけでもない。総理大臣や大統領になって名誉は手に入れても、皆に愛されるわけではない。必ず誰かに憎まれる。
大金もちになって人に羨ましがられたところで、必ずまた人の妬みをかうことは避けられない。どちらも真の心の安寧には程遠い。漱石の草枕の冒頭の心境だ。
スポーツもやっていて結果が少しでも伸びているうちにはゲームと同じで面白い。だが命と同じでいつかは必ず限界が訪れる。
スポーツその語源が気晴らしだと聞いた気がするが気晴らしばかりでも退屈だ。ジョンレノンがビートルズ解散のあと放蕩三昧の果てに音楽に戻っていったのは自分の真の価値を見いだしたかったにちがいない。
それらを知っていて続けるためには快感が無いと続けられない。気持ちいいから続けられる。気持ちよくなくて続けるマゾは気持ちよくないことが気持ちいいのだ。
どうせ一度は生まれてきたのだから、与えられた時間、せいいっぱい自身の好奇心や快感を満足させてくれる体験がしてみたい。ただその一途がみなの本願、煩悩の本質である。ところがこの興味、欲求というのはその時々変わって行くからたちが悪い。
その時々変わってしまう本当にしたいことというのはたいてい色んな障壁、しがらみがあって出来ないで居ることも多い。悲しいかなその障壁を取り去ると途方もない自由が訪れるが一方で途方もなく大事なものも喪失することになりやすい。
日本一周も世界一周も大金がなくたってすることができなくはないが、それには愛するものたちと長く離れなければならない。旅に生き、旅に死す芭蕉のならい、鳥なき魚の目に泪だ。
どれが上でも下でもなく、万事中庸。バランス。極端に振ることなく、おのが煩悩と付き合っていく他ない。
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