戦略展開、研究開発、発展途上国、人材(資源)育成、ネットワーク構築、発達心理学、計画策定、もうちょっとソフトにある感情が育つこと、写真の現像・・・勘のいい方、同業者の方はもうお気付きでしょうか・・・これ全部、英語だと同じ言葉を使います。展開、開発、発展、育成、構築、発達、策定、育つこと、現像・・・はすべてDevelop。スペイン語だとdesarrollarですが(上記のすべてこdesarrollarで大丈夫です)、どっちにしろ、私の一番苦手な言葉のひとつです。


翻訳を仕事にしてみて、初めて気がつくことは実にたくさんありましたが、この「落とし穴は普段気にしないで使っている言葉にある」というのもその一つです。develop! 英語を勉強して最初に習う言葉の一つですが、しかし・・・私の乏しい経験から言わせてもらえば、これは一番翻訳にてこずる言葉のひとつでもあるのです。


翻訳の仕事は残念ながら文学ではなく経済関係のものがほとんどなので、この言葉は実に頻繁に顔をだします(言葉に顔はないかもしれませんが)。基本的には、この言葉の意味は大きく二つにわけられるのです - 1)既にある小さな「何か」を大きく育てること、もしくは2)新しく「何か」を発見し育てること。翻訳する原稿を読んでいて、developという言葉に行き当たったときに私の頭に浮かぶのは、大体この二つのぼんやりした観念であり、それで充分意味は通じます。しかしこれを日本語に直すとなると・・・辞書を引けば優に二十を超える訳語が出てきますが、それで驚いてはいけない。そんなのでは全然足りないのです。それでアタマを抱えてインターネットで「この言葉は何!」と探すことになります。今日出てきたのは、developing needs・・・だんだん必要になってきていることですね、とはわかるのですが、じゃあこれをどんな日本語にするのか。展開、開発、発展、育成、構築・・・どれもだめです。助けてくれ、と言いたい。


これは日本語と英語(まあスペイン語もそうですが)の単語の意味する範囲が大きく食い違っているせいだと思うのですが、どの単語にもこの食い違いはあるにしても、特に顕著な例にdevelopが挙げられるのではないでしょうか。日本語の豊かさのひとつに、「対の規則」(と勝手に名付ける)があるかと思うのですが・・・つまり、ネットワークや枠組みは「構築」するのであって「育成」ではない、とか、戦略は「展開」、まあ「構築」でもなんとか、でも「策定」だとちょっとヘンで「育成」だと全然ダメ、とか、写真はどうしても「現像」だ・・・ということですが、単語一つ一つの与えるイメージが微妙に違うことろが、言葉の豊かさと難しさを作り出しているのは確かでしょう。結局全部「何か」を作り上げるんだから、developみたいに一言で片付けてよ!と叫びだしたくなることも再々ですが。


同じような意味で、developのほかにすぐ思いつく例は、academicです。academic leader, academic profile, academic institute・・・「学術」で済ませられればどんなにいいか・・・でも、学術機関はあっても学術主導者はいない(これはカタカナでアカデミックリーダーというのが一番無難なようです)。もとが違う言葉なのだから仕方がない、とはいっても、なんと因果な商売か、と思ってしまうのはこんなときです。見たこともないような難しい言葉ではなく、日常的な言葉こそ謎に満ちている・・・これはすなわち、二つの言語圏の考え方が全く異なっている、ということを表しているのでしょうが、これをなんとかこじつけ、結びつけるのが通訳翻訳業・・・なんですかね、やっぱり。

このごろ、久々に小説にはまっています。本当にここ数週間のことですが。


調べ物や勉強(言葉の勉強を含めて)のためではなく、物語に耳を傾ける、その愉しみのためだけに本を読む、という経験を長いことしていなかった気がします。


いい小説、というのは、誰かの面白い話に耳を傾けることと全く同じで、それはつまり他人(作者)の世界に入り込んでしまうことなのだと思います。いい小説家というのは、おそらく、外の世界とは独立したほころびのない自分の世界を持ち、それを語ることができる人物なのでしょう。目が追っているのは確かに文字なのに、描写されている街や登場人物の住むフラットの壁の色、彼や彼女の買ってきた紙袋のたてる音、その中の野菜やグラスに注がれたワインの色、冬の凍てついた風や逆に夏のじっとりと汗ばむような午後・・をどこかで感じさせる、その場で目の端で見ているような臨場感を読者に与える、というのは一体どういう才能なんでしょうね?語り部、というのでしょうか。


言葉を媒介にして一人一人異なる読者の記憶のプールから、必要な知識を引き出す。目の前に有無を言わさぬ画像を提供する映画とは異なり、ほとんどの場合、小説家が頼るのは読者一人一人の持つ経験や記憶、そしてそこから生まれる想像力です。小説を読む愉しみ、というのは、この「自分の中から(個人的なものではないにしても)記憶や想像力が引き出される」、という快感なのかもしれません。


それはまた、作者の目を通して、様々な世界を見せてもらうことでもあります。昔、何冊か読み出す前の本を目の前にならべて、「さあ、どこに行こう」と考えたことを思い出します。一番手軽な旅行ですね。


こんな記事を書いてしまったのも、このところ小説を読んでいると、まるで砂地に水が沁みこむような気持ちになってくるからです。よっぽどいい本に飢えていたんですね・・・今読んでいるのは、ジュンパ・ラヒリの小説です。寝ても覚めても(というか昨日読み始めたばかりなんですが)、登場人物たちがまるで知り合いのようにそばにいる気がします。


読書の愉しみ、なんて、何を今更・・・。でもそれでも。忘れちゃいけない、読書の愉しみ。





昨日グラナダに帰ってまいりました・・・・一ヶ月ぶりに。仕事はセビリアでもできるのですが、大学のことなどでさすがにこれ以上滞在をのばすわけにもいかなかったのです。恐れていたほど寒くもなく、久しぶりに見るグラナダはやっぱり綺麗です。でも今日は、週末にぶらぶらと寄ってきた、セビリアのカテドラルの話をしましょう。


セビリアのカテドラルの塔(ヒラルダの塔)については、以前にも ちょっとだけ書きました。セビリアで私が一番大好きな建築物です。もとモスクのミナレットに、少しフィレンツェの大聖堂を思わせる鐘楼をつけたのもです。でも、塔以外にもカテドラルには見所がたくさんあります。なんといっても、バチカン、ロンドンの聖ポールに続いて、世界で三番目に大きなカテドラルなのですから。


ヒラルダを除けば、カテドラルは基本的にゴシック様式です(内部には、ぎゃっと驚くバロック様式のけばけばな礼拝堂もありますが)。門がたくさんありますが、一つ一つに非常に細かな装飾がほどこされています(よく見ると例のごとく変な動物などがいて面白いのですが)。写真は門のうちのひとつですが、現在はまん前に大きな女性の彫刻がおかれています。これは通称(愛称というべきか)ヒラルディーヨ、ヒラルダの塔の天辺に据え付けられている彫像の、現物大の模型です。なぜ彼女の模型があるかというと、最近ヒラルディーヨを修復したのですが、その間現物大の模型が塔に立っていたためです。そばに立つと見上げるほど大きく、なかなか迫力があります。ヒラルディーヨはセビリアのシンボルの一つであり、バルの名前になっていたり、ふらりと入ったバルの壁に彼女の絵が掛かっていたりします。


Giraldillo1


カテドラルの中に入ると、すっかりゴシックです(場所によってはルネッサンス様式の部分もあります)。先日 ちょっと書いた、バロック様式のサンルイ教会と比較すると・・・なんというか、非常にすがすがしい。


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この「建物の骨」だけを強調した部分で、建築物全体の重みを支えているそうです。もっともゴシックだって装飾がないわけではぜんぜんなく、天井を見上げると一面花模様だったりします。スペインだと、これが後期ゴシックになってくると、どんどん装飾が増えていって、曲線もなんだか込み入ってきます(ゴティコ・イザベリーノ、イザベラ女王の時代のゴシック、と言うそうです)。このカテドラルも、ぱっと上を向くと、気が遠くなるほど高い天井には一面に花のような模様が浮かんでいたりします。


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・・・とゴシックの綺麗さにばかり目がいってしまい、あまりそのほかの写真を撮らずに帰って来てしまいました。ここにはなんと、コロンブスのお墓もあったりするのですが。なぜかスペインでは、名前が短縮されて「コロン」と呼ばれています。クリストバル・コロン。まるで別人のようですね。


そのほか、セビリア出身の画家ムリーリョの宗教画があったり、目もくらみそうな宝石ぎんぎんの宝物があったりして、数時間はゆうに過ごせる場所です。今回は散歩ついでに行ったので、「うーんきれい」と感心しただけであっさりと出てきてしまいましたが。


最後にゴシックの写真をもう一枚。この陰影がいいですよね・・・。ロマネスクのなんだか素朴な感じも、バロックのぎゃっとびっくりするようなごてごてした感じもそれなりに好きですが、やっぱり荘厳かつ優美、というとゴシックが一番だと思います。まあ趣味の問題ですが。ちょっといいものを見たい日曜日の散歩、には贅沢すぎますかね・・・。


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この本が出版されたのは1997年ですから、もう一昔前のことになります。地下鉄サリン事件の被害者62人のインタビュー証言を集めたものなので、かなり分厚い本で、なかなか読み返す機会がありませんでした。7,8年前にはじめて読んだとき、情報量とインタビューで再現される体験の生々しさに、読み終わって頭がぼおっとしてしまったことを覚えています。当時は村上春樹氏の小説には興味がなかったのですが、このノンフィクションは非常に貴重な仕事だと強く思いました。今回読み返してみて、その思いを強くしました。何か事件が起こったときに、「実際には何が起こったのか」ということは報道だけでは絶対にわからない、ということです。


著者が前書きや後書きで述べているように、この本では証言者自身に焦点をあてており、彼らの「事件体験」だけではなく、生い立ちや仕事、家族、趣味、その他もろもろ-言ってみれば証言者の「人生」について知り、その全体像のなかでサリン事件が彼らにどのような影響を及ぼしたかをつかみとろうとしています。読者は彼らが自身について語るのを聞き、その後彼らが1995年3月20日の朝に体験したことについて聞くのです。それはある意味、個人的な知り合いから話を聞くのにも似ています。事件を、「報道された一過性の事実」としてではなく、「このような日々を送っている人が被害を受け、影響を受けた」こととして見る、ということなのだと思います。


・・・もっと具体的に述べるなら、「そのときに地下鉄の列車の中に居合わせた人々は、そこで何を見て、どのような行動をとり、何を感じ、考えたのか?」ということが知りたかった。できることなら乗客一人ひとりについて細かいところまで、それこそ心臓の鼓動から息づかいのリズムまで、具体的に克明に知りたいと思った。ごく普通の市民(それは私であったかもしれないし、あなたであったかもしれない)が、東京の地下でこのような思いも寄らぬ異様な大事件に唐突に巻き込まれたとき、そこではいったい何が起こるのだろう?

でも不思議なことに(あるいはそれほど不思議でもないのだろうか)、私が知りたいことは誰も教えてくれなった。

それはどうしてだろう?

                                                〔著者あとがきより抜粋〕


この事件が起こったのが1995年(その日のことはよく覚えています)、それまでは政治がらみでない「宗教テロ」というのはあまり印象になかったのですが、あれ以来、9-11をはじめとして忘れられない「宗教テロ」が数多く起こりました。


村上氏が小説で扱う主要なテーマの一つに、「こちら側とあちら側の世界」というものがあり、「あちら側の世界」というのは私達の内包する精神的な暗黒や暴力性を、日常生活から締め出し押し込めている世界である、ということがいえるかと思います。著者はサリン事件を彼なりに理解しようとするうえで、この定式で「何が起こったのか」を説明しようと試みています。とても示唆に富んだ解釈なのではないか、と私には思えます。


そしてあなた(とりあえず二人称を使わせてもらっているが、もちろん私もそこに含まれている)にとってはどうだろう?

あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私達はなんらかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?

 私達がオウム真理教と地下鉄サリン事件に対して不思議な「後味の悪さ」を捨てきれないでいるのは、実はそのような無意識の疑問が、本当には解消されていないからではないのだろうか?私にはそう思えてならないのだ。

                                                          〔同〕







家を買いたい、と本気で考えたことはまだありませんが(あっても先立つものがない)、家やマンションにあまり興味のない私でも、ああいいなあ、とこれだけは本気で憧れるのがパティオです。もうそれは昔々から、パティオなどと言う言葉を知る前から、「外を通る道から隠された中庭」に憧れてきた気がします。


パティオはイスラム建築の中核なのだそうで、イスラム教が伝わったところ-西はモロッコから東は中国まで-の建築物に見られるそうです。家の中心にあり、小さな噴水があったりします。噴水があれば絶え間なく静かな水の音が響く、こころ落ち着く空間になります。ちょっと遣り水に似ていますね。水の音がしているほうが静けさが深まる、というところが。


ちょっとパティオの写真をみてみましょう。

Patiomusearq1


これはグラナダの考古学美術館のパティオですが、もとは貴族のお屋敷だったそうです。この庭にはあまり植物がありませんが、もっともっと緑の多いパティオもあって、こんな中庭があったら一日くらい家から出なくてもいいや、と思うくらいです。コルドバでは毎年五月、パティオの美しさを競うパティオ祭りが開かれます。いつもは通行人には覗くこともできないパティオですが、このときばかりは家から家へといろいろ見てまわることができます。もっともみんな、これでもかというくらい植木鉢を壁にぶらさげ、色とりどりの花をごっそり飾ったりするので、落ち着いた空間という感じはあまり味わえないのですが。


従来イスラムの都市計画では、プライバシーを非常に重視した街作りが行われたということで、家の敷地の公道に面した部分にはあまり穴(窓とかですね)がないためパティオだけではなく、家全体がひっそりと隠れたような感じだったようです。敷地には塀をめぐらすのですが、その塀の高さも「テーブルに乗った男性にも覗けない」という高さが基準だったとか。塀に扉をとりつけるときには、道をはさんだ前の家と対称の位置には扉をつけず(お互いの家の中が見えてしまうので)、ずらした位置につけたのだそうです。道に向かって開かれた窓には、木の細かな格子がついていました。グラナダのアルバイシン地区などには、そのような街の造りが残されています。


道からほんの少し奥まっているだけなのに、パティオにはいつも静かなイメージがあります。一番印象に残っているのは6年半前、はじめてアンダルシアを旅行したときに、コルドバの街で訪ねたパティオです。一人で旅行していて、到着したときに観光オフィスに、何か今夜コンサートでもやっていないかと訪ねると、ある家のパティオでギターコンサートがあると教えてくれました。地図を頼りに訪ねたそこは普通の家で(大きな家でしたから、パティオを囲んで数家族が暮らしている建物だったと思います)、緑にあふれたパティオの隅や壁には蝋燭の明かりがともされていました。演奏したのは男性二人で、彼らの知り合いと観光客が半々くらい、椅子もとくになく、みんな地面や小さな階段に座り込んで細くて軽いギターの音がだんだんと暮れていく空に上っていくのに耳を澄ましていました。外が暗くなり、パティオを囲む窓に明かりがついたころ、二階や三階の窓に人影があらわれて窓をぱたんぱたんと閉めていったこと、どこかで赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえたことを覚えています。こんなパティオで毎日過ごせる家に生まれた子供はなんて幸せなんだろう、とそのとき思いました。


モロッコの女性学者(社会学者でもあるのかな?)ファティマ・メルニーシー氏の著書、「ハーレムの少女ファティマ」(ラドクリフ川政祥子訳、たしか原書は英語だったと思います)には、モロッコの古都フェズで生まれた彼女の家について書かれていますが、当時のモロッコの大家族にとってのパティオの重要さがよくわかります。ハーレムとはいわゆるハーレムではなく、大家族が一軒の大きな家にパティオを囲んで住んでいる(パティオの四方がそれぞれ独立していて、それぞれ親族の一家が住んでいる)という状態のことを言うのだそうです。パティオは、数多くの従兄弟や兄弟姉妹が毎日遊ぶ場所であり、家の女達が集まって家事をしたりヘンナで髪を染めたりしながらおしゃべりをする場所でもありました。


この本では生活に密着していて、隠れた楽園、というイメージではないかもしれませんが・・・でも水と植物があって空が見えて、すぐ外には街のざわめきがあるのにここは静か、という場所が楽園でなくてなんでしょう。ああパティオがほしい。


Patiomusearq2

























相変わらずセビリアに居座っております・・・今日はやっと一本、翻訳原稿を仕上げました。オーストラリアの教育に関するものだったのですが、明日からはまたインドです。翻訳するだけじゃなくて、本当に自分も行けたらいいのに、ってそれは通訳じゃないとだめですね・・・。


週末に行ってきたコンサートの話でもしましょう。セビリアのInstitut Francais・・・フランス文化協会?が組織したコンサートで、無料ですが素晴らしかったです。アルバニアを中心としたジプシー音楽で、演奏家も当然アルバニア出身のジプシー(今はロンドンに住んでいるそうですが)の、Tonin TANE氏でした。バイオリンと歌です(弾きながらは歌いませんが、もちろん)。


音楽も本当に素晴らしかったのですが、その前に会場の話を少し。サンルイ通りにある、Iglesia de San Luis de los franceses という教会で行われました。直訳すると「フランス人達の聖ルイ教会」、聖ルイっていうのは誰なの?とセビリア出身の知人に聞いたら、「太陽王ルイ14世よ」といっていましたが、本当だろうか・・だって「聖」ルイなのに。なんとなくちょっと納得できないのですが。誰なんだろう。


まあそれはいいとして、この教会(今ではミサなどには使用せず、もっぱらコンサートや演劇などの文化活動に使われているとのことです)がとにかくすごかった。外も中もものすごいバロック様式で(これはこれで慣れると結構好きになったりもするのですが)、もう装飾だらけ。ちょっとご覧ください。

Ig.de San Luis2

これは壁にあった聖人像とその装飾ですが・・・教会中こんな感じです。いやすごい。この息のつまりそうなスペイン・バロック装飾は、チュリゲリスコ様式と呼ばれています。チュリゲリスコ兄弟という人たちの工房から始まった、のでした(確か)。もうとにかくいたるところを装飾で埋めまくる、こういうスタイルをmiedo de vacio、「空虚の恐怖」というのだと習いました。要は隙間を残しちゃダメ、ということですね。

ちなみに学校では、スペインのバロック様式というのは1600年から1750年くらいまで、宗教芸術面では、新教の台頭に危機感を抱いた旧教(というかカトリックですね)側が、民衆を(もちろん旧教でいうところの)神の前に畏れ入らせることを目的とした部分があるのだそうです。それでこうとにかく度肝を抜くような感じなんですかね・・・ちなみにその頃スペインはお金がなかったそうで、天国を思わせる(?)びっくりするほどキンキラキンの装飾も、薄い金箔がはってあって、中身は木です。壁の装飾も、よく見ると彫ってあるのではなく、「描いて」あったりします。

こちらが天井。これは全部描いてあります。壁のものすごさ、重々しさと対照的に、丸天井には大きな明かり取りの窓が並んでいて、すっきりとした感じがしました。素晴らしかったのは、コンサートの始まった6時半から1時間のあいだ、この窓の外の空が明るい青からピンク、薄紫、深い青へと移っていったことです。自分が一つの場所にじっとしていたので、「地球が回っているなあ」と実感してしまいました。

Ig. de San Luis 3


まあ教会の話はそれくらいにして。音楽ですが、この素晴らしい教会の、丸天井の真下(身廊にあたるところです)で演奏されました。周り360度観客で一杯でした。実際、300人は入る教会でしたが、人で溢れかえって扉を閉められなかったくらいなので、400人はいたのではないかと思います。


アルバニアのジプシー音楽、というのは音階が細かく、短調が多く、なんとなく東洋的な感じがしました。ジプシーはもともとはインド出身だそうですから、東の系統の音楽なのかもしれません。そしてバイオリンですが、普通のクラシック音楽などとは異なり、非常に激しい弾き方でした。歌声をそのまま楽器に移したような感じで、泣き叫ぶこともある、というか。歌も気取ったところの全くない、ナマの感情、という聴いていると背骨に響いてくるような音楽でした。

Tonin Tane1

プログラムにはギリシアやルーマニアの民族音楽を取り入れたものもありました。圧巻だったのは、どんどんテンポの速くなっていく曲(ギリシアの結婚式の曲だったと思います。ラキというお酒の歌が入りました)を演奏していたとき、突如後ろのほうにいた中年女性二人が「ホッパー!」と叫びだしたことで(これはどうもギリシア語の掛け声?らしいのですが)、びっくりして振り向くと、長い黒髪にいかにもジプシー風の顔立ちの女性が二人で、半分踊りだしていたことです。その上彼女達は大声で「todos! vosotoros!」みんなで!と叫びだし、一時は教会中に手拍子が鳴り響きました。Tane氏はちっとも動ぜず、嬉しげに演奏していたあたりが、これは気取った音楽ではなく、体から直接生まれてくるものなのだ、ということなのでしょう。演目がすべて終わったころには、バイオリンの弓の糸がぼろぼろに切れていました。


帰り道、バイオリンを抱えたTane氏が、小柄でやっぱり黒髪の彼女だか奥さんだかの手を引きながら私達のグループを追い越していきました。耳慣れない、不思議な言葉で話していました。いわゆるロマ語、だったのでしょうか。


蛇足ですが、ジプシーの音楽といえば、ひとつ絶対にお勧めのドキュメンタリー映画があります。トニー・ガトリフ監督の、「ラチョ・ドロム」。インドからはじまって、各地のジプシーの音楽を追っていったものです。インド、エジプト、トルコ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、フランス、スペインなどのジプシー音楽(スペインはフラメンコですね)が、素晴らしい映像(実際に各地の音楽を演奏しているジプシーたちの映像です)とともに繰り広げられ、観るものの心を奪います。製作年は確かではありませんが、私がはじめて観たのは10年くらい前だったと思います。機会がありましたら、是非どうぞ。



クリスマス休暇の最後に一日だけロンドンに寄ったとき、友人と本屋に入りました。アイルランドからの帰りだったので、アイルランド人の作家の本を読もう!と探したのですが、最近の作家は全然知らないし・・・などとうろうろしているうちに、なぜか結局中国人、インド系米国人、英国人の作品を一冊ずつ買ってしまいました。買い物なんてどうせこんなものです。


その一冊目がこの本。ちょっと見て面白そうだな、と思って買ったのですが、これが大当たり。作者は中国人ですが、1985年にアメリカに渡っています(日本語にもなっているようです。「狂気」、ハ・ジン著、立石光子訳)。


ちょっと驚いたのは、この本を英語で書いていることで、もちろんネイティブ編集者等の直しが入ってはいるのでしょうが、それにしてもとても「外国語」で書いているとは思えない、素晴らしい文章力です。確かに文体は平易ですが、非常に流れのある文章で、読み出すととまらない感じです。外国語で書く作家、というのは個人的にとても興味を引かれる存在なのですが、日本人だと「シズコズドーター」などの著者のキョウコ・モリ氏がいますよね(日本で育ってから渡米した人で、作品は英語で書かれています)。彼女の本は日本語に翻訳されたものを読んだのですが、「逆輸入」みたいな不思議な感覚でした。


それはさておき。このThe crazedですが、基本的には一人の青年の成長がテーマ、といえるでしょうか。舞台は1989年、天安門事件の直前の中国です。主人公の26歳のジアン青年は、地方都市で博士過程の入学試験の準備中ですが、いきなり脳卒中で倒れた恩師の看病をすることになります。中国文学を専門とする、「知識人」の恩師ですが、うわ言で、今まで明かさなかった自らの過去や、人間性を押しつぶす社会体制の中での「知識人」の無力さ、無意味さについての本音を語りはじめるのです。

北京で勉強している恩師の娘と婚約し、学者となることを志しているジアンは、恩師がうわ言で吐く暴言や、私利私欲に隅々まで凝り固まっている大学内の政治、また都市ではない地方の村々で信じられないほどの貧困にあえいでいる人たちと、贅沢三昧の党幹部の暮らしの格差などを目にして、自分の進路について疑問を抱きます。時に北京では、学生が腐敗した党政治に抗議するため、天安門に集結していました・・・。


少し抜粋してみましょう。下に一応訳を載せておきます。意訳拙訳なので、間違いがあったらごめんなさい。


                           ***

That's how I decided to go to Beijing with Mantao and thirty-two undergraduates. Different from them, I had no grand purpose or dream of democracy and freedom; nor did I have the sense of responding to our national exigencies. My motive was mainly personal - I was driven by desperation, anger, madness, and stupidity. First, I meant to show Meimei that I was not a coward and could go to the capital at any time and in any way I chose. Second, I wanted to puncture a hole in this indestructible cocoon that caged me; somehow I felt that the right place to plunge a knife in was Beijing - the sick heart of this country. I was crazed, unable to think logically, and was possessed by an intense desire to prove that I was a man capable of action and choice. So I set out for the capital with a feverish head.


 そうやって僕は、マンタオや三十二人の学部生達とともに北京に行くことにした。彼らとは違い、僕には大いなる目的や、民主主義と自由などという夢があったわけではないし、祖国の危機に応えなければと思っていたわけでもなかった。僕の動機は主に個人的なもの、絶望と怒り、狂気、そして愚かさといったところだった。まず僕は臆病者ではないし、行こうと思えばいつでも北京に行けるのだ、ということをメイメイに思い知らせてやりたかった。第二に、僕が閉じ込められていて破ることのできないこの繭に穴を開けたかった。なぜか、ナイフを突き立てるべき場所は北京ではないかという気がしたのだ-この国の、病んだ心臓。僕は狂っていた。筋道を立てて物事を考えることができなかったし、自分は行動することも選択することもできる男なのだ、と証明したい気持ちで一杯だった。

それで熱に浮かされたように、僕は首都に向かった。


                              ***

天安門事件のときの北京の描写は、ああ本当にこうだったんだろうなと思わせます。ジアンは広場までは行き着くことができないのですが、北京で、派遣されてきた人民軍を学生達のいる広場に行かせまいと市民たちが必死な状況が書かれていて、心が痛くなります。


結末まで、一気に読ませる本です。「狂気」は病に倒れた恩師だけでなく、当時の中国全体を指しているのでしょう。「どんな政治も制度も、すべて結局は個人の利害で動いている」というジアンの考察など、なるほどと思う部分も多いですが、何よりも流れのいい文章に引き込まれます。他の作品もぜひ読んでみたい作家です。








長々とクリスマス休暇のことを書いていますが、今日で終りにいたします。


ダブリンに三泊したあとは、車を借りてゴールウェイ→ケラニー→コークとそれぞれ一泊ずつしました。途中のいろいろな町や浜辺で景色を見ながら行ったりしたため、かなり長時間車で過ごすことになりました。でも窓から見える緑が目に沁みるようで(スペインは全体的に乾いていて茶色なので、なおさらそう思うのかもしれませんが)、本当に美しい国だなと思いました。


首都ダブリンは人口150万の都市ですが、二番目に大きな街コークの人口は15万とぐっと少なくなります。アイルランド人は、アイルランドに500万人くらい、海外に2000万人くらい住んでいるのだと聞きましたが、本当に人の少ないところなのです。見渡す限りの緑、緑、緑。そして集落。晴れ渡っているのならともかく、冬なので空は光るようなグレイで、ずっと緑に続く平野にぽつんと裸の大木が立っていたりするのはなんとなく恐ろしげで、アイルランドに妖精だの幽霊だのがたくさんいる、というのがなんとなくわかる気がしました。なんというか、この世のものではない感じの風景なのです。そして村々のはずれにある墓地。必ずといっていいほど崩れかけた家屋があって、いかにも恐ろしげなので(夜になるとこれが普通の家になって、墓場の人たちが暮らしている、というような感じでした)、連れにあれは何なの、と聞くと古い教会だとのことでした。ますます恐ろしげなんですけど。


そんなわけで、ちょっとこの世のものならぬ光景を見ながらのドライブでしたが、これはアイルランドを横断してゴールウェイに着く前に、途中で寄ったアスローンという村の写真です。

Athlone1

かわいい!とにかく建物がかわいいのです。どの村も、ゴールウェイも、とにかく西のほうではすべて、こうやって家々をカラフルに塗るのだそうです。この写真では比較的渋い色が多いですが、このほか深い紫や黄色、青、緑、オレンジなどとにかく色とりどりでした。みんなで色を決めているのかというとそうではなくて、各人が適当に好きな色を塗るそうです。それでも遠くから見るとしっかり決まっている。西のほうの小さな村に家族のいる知り合いに聞いたら、冬の厳しい寒さの中を何時間も何時間も誰もいない中を歩いてきたりして、村に着くといろいろ明るい色があってほっとするからではないか、と言っていました。なるほど。


ゴールウェイは学生と音楽の街で、とにかく元気がありました!一月の一日だというのに、夜遅くまでパブやバーは人であふれていて、しかもまたどこでも音楽の洪水。感心したのは、バーの若い客(20歳くらいですかね)達が、ケルト音楽(ロックなどにアレンジされていたものも含めて)を聴くとディスコダンスではなく、互いに腕を組んでぴょんぴょんと跳ねる、あのケルトの踊りを踊りだしたことです。それも大勢で。セビリアでは誰もがセビジャーノを踊ることができるように、ここでは誰もがケルトの音楽を生きているのだな、と感心してしまいました。


ゴールウェイについたのは夜でしたが、そのすぐ近くのソルトヒルという海辺の村で撮った写真です。夕暮れ近くなのですが、海も空もグレイに光っていて、スペインの真っ青な空や海とはまた全然違った魅力がありました。

Salthill


そしてゴールウェイを出てからは、風光明媚なケリー州をまわったのちコークへ。途中、小さな村で(上の写真のような建物がたくさんありました)連れの知人の、普段はセビリアに住んでいるアイルランド出身の女性と会いました。彼女が言うには、1860年代の大飢饉以来、国外に大移動してしまったアイルランド人が、今本国に戻ってきつつあるということ。セビリアに7年間暮らした彼女も、今年の夏にはアイルランドに戻ることを考えているそうです。確かにここなら帰ってきたくなるよな、というような、美しく魅力的な国ではあります。


ケリー州の自然公園にて。冬のせいでほとんど人がいなく、ほとんど音のない中で鏡のような湖を堪能することができました。どこまで行ってもこのような風景が続いているのです。湖の周りを一周する、9キロのハイキングコースなどもあったのですが、残念ながら時間がなくて今回は断念しました。でも次は是非!

Kerry1


コークに夜着いたのち、翌1月4日の早朝の便でロンドンに戻り、そこで友人と会ったりしてから翌5日にセビリアに帰ってまいりました。楽しかった!・・・けれどあまりにも見所が多すぎて、とても一度の旅行では足りませんでした。次回からはピンポイントで、週末くらいの短い滞在で一箇所に絞っていこう、などともう計画を練り始めているところです。





相変わらず仕事に追われています・・・皆様も同様でしょうか。年明けは大変ですよね。


まあそれはとにかくとして、もう少しダブリンのことなど。

Dublinchinatown

この看板は、中国韓国料理のレストランです・・・つまりオーナーは明らかに中国人なんですね。でも英語よりも、中国語のほうが目立っている看板です。ダブリンで一番面白かったのが、この台頭しつつある中国人コミュニティで、まだ「中華街」といえるほど発達していないのですが、今まさに育ちつつある、というエネルギーを感じました。レストランはもちろん、インターネットカフェ、美容院などいろいろ中国系のお店が固まっているのですが、表示が中国語だけだったり、英語と併記だったり、はたまた中国語のメニューと英語のメニューで値段が違ったりといろいろでした。


びっくりすぐほど安く、美味しく、そして全然綺麗じゃない壊れかけているようなレストランもあって(アイルランド人と思われる客はほとんどいなく、テレビでは中国の番組が放送されていて、ウェイトレスは英語がわからない、というなかなかすごい店でした)、でも5年後にはこれがファッショナブルなレストランになっているのかな、と思ったりもしました。10年くらい前に移住してきたのかな、という感じの20代前半の中国系の若者が多くたむろっていて、なんだか楽しそうだなと思ったりしました。中国系の人たちは、コミュニティを海外でも維持しているところがいいですよね。日本人とは違うところだと思います。


ダブリンは人口150万人とのことですが、どの店(スーパーマーケット、レストラン、カフェ、ホテル、パブなどなんでも)一人二人は中国系移民が働いていて、十年ぶりにアイルランドに行った連れは目を丸くしていました。アイルランド人の知り合いによれば、人口の10%がポーランド系の移民で占められつつあるということです。とにかくすごい移民社会になりつつある、ということです。


あとは、ダブリンその他でちょっと感心したことを少し。

Dublinposter1

この政府系ポスターは、パブの多いテンプルバー地域に貼られていたものですが、メッセージが"Don't lose your head"。笑い事じゃないのかもしれませんが、酒飲みだなあ、とちょっとあきれてしまいました。「飲んだら殴るな」って感じでしょうか。このほかにも、なにかのオンラインショッピングのポスターで、絵も写真もなく、ただ「オンラインで買っていれば、今この瞬間お店じゃなくてパブにいられたのに」と書いてあるものがあって、もうとにかく飲まずにはいられないのね、と思ってしまいました。

Dublinposter2

このポスターはバスに貼ってあったものです。メッセージは、「バスのフロントミラーにぶつかるといけないので、あまり前にでてこないように」ということですが、このほか同じシリーズで、メッセージが階段の形になっていて、「下に席がなければ上で探してみて」というのもありました。ダブリンのバスも二階建てなのです。

Galwayposter

これはダブリンではなくてゴールウェイですが、なんとわかりやすい。ちゃんと掃除しなきゃいけませんよね。確かに綺麗で、感心しました。グラナダはこの点ではひどいのです。マンチェスターにも似たような看板があって、No foulingと書かれていました。Foulというと、Foul mouthで口汚い、というような意味になりますが、街を汚すこともfoulというのね、と妙に感心してしまった。


そして最後に。ゴールウェイからキラニーに車で行ったのですが(レンタカーですが、ペーパードライバーの私は地図を見ていただけでした)、その途中の村で、針のようにとがった塔のあるゴシックの教会がありました。カトリック系の、聖ジョン教会、ということで、残念ながら中には入られなかったのですが、すぐ外でこんなものを発見しました。

holywater

聖水が蛇口から出るってすごい。聖水といえば、カラチの友人宅で一度、ペットボトルに入った水を「これは聖水なのよ」と見せてもらったことがあります(この場合はムスリムの聖水ですが。イマームが祝福するのだと思います)。飲むのか、どうするのかは聞きそびれてしまいましたが。この教会の聖水は、神父さまが祝福したものを水道につなげておくのでしょうか?とちょっと考え込んでしまったのでした。

相変わらず仕事に追われています。今日は一日PCの前で過ごしてしまいました・・・休暇のあとって、こんなものですね。セビリアは今日も快晴だったので、外に出られなくて残念。でもさすがに休みのあとの出勤日、というだけあって、夜10時すぎにちょろっと散歩してきたら街ががらがらでした。普段なら夜はこれから、という時間なのですが。みんな似たり寄ったりの状況なんですかね。


さて、もう少し(といっても写真をとりまくってしまったのですが)、訪ねてきた街の話を書きますね。12月27日にマンチェスターからダブリンへとRyan Airで飛びました。これはアイルランドの格安航空会社ですが、本当に安い・・・確か片道で15ポンドくらいでした。時間も正確だし。席が指定でないので、飛行機に乗り込むときちょっとみんな殺気立ちますが。


アイルランドには初めて行きました。ずっとイギリスに住んでいたのに、全然その歴史を知らなくてかなり情けなくなりました。印象としては、歴史だけではない、ここにはイギリスとははっきりと違う文化があるのだな、ということです。人も違うし、街の色も違う。

Templebar1

まあアイルランドといえばパブですよね。有名なダブリンのテンプル・バーです。でも人が多すぎて入れませんでしたが。ダブリンに着いた夜から何軒パブに行ったことやら・・・ビールはあまり飲まないのですが、アイルランドにいる間はずっとギネスを飲んでいました。他で飲むよりなんだか美味しいような気がしたもので。


これはイギリスと違う、とまず思ったのは、ここの人たちの音楽性です。なんというか・・・もちろんケルトの音楽や、フィドル(バイオリン)は有名なので、是非聴きたい!とは思っていたのですが、アイルランドでは音楽は探しにいかなくても、いたるところにあるもののようです。人のごったがえしたパブに、じゃあまず一杯、と飲みにいくと、必ずといっていいほど演奏家がいました。それも一人ではなく、フィドルとバンジョーとギターと・・・という風に4,5人でそこらへんの椅子に座って、ギネスの大きなパイントをテーブルにおいてそれは楽しそうに演奏しているのです。若者からおじいちゃんまで、演奏家の年は様々でしたが。そして客はかしこまって拝聴する、というのではなく、これもギネスを飲み、話したり笑ったりしながら一曲終わるごとに大拍手、という感じでした。一曲終わると、演奏家も飲みながらしゃべりだすので、次までが長い長い。


アイルランドの音楽は、あのテンポの速い、バイオリンが唄うような音楽ですが、聴いていてとても刹那的だなと感じました。旋律は明るいのに、今という時間が止まることなく一刻一刻とすぎていくのを惜しむような音楽です。これはまったくの私見ですが、音楽を体験するというのはその一瞬一瞬を最も強烈に生きることのような気がします。テンポの速さで時間をできるだけ細かく区切ることで、過ぎていく一瞬一瞬をそれだけ強烈に感じることになるのでしょうか。


それはさておき。三泊したのでパブにもかなり行きましたが、ちゃんと名所観光もいたしました。どこに行っても大聖堂は基本だ、と思っていたら、なんとダブリンには二つも大聖堂がありました。一つも大聖堂がない街だってあるのに・・・スペインではサラマンカに二つ大聖堂がありますよね。


Catedral1

クライストチャーチと、聖パトリックチャーチですが、どちらがどちらだか忘れてしまった・・・確かこちらがクライストチャーチだったと思います。ダブリンの教会はとにかくゴシックが多くて、塔がこれでもかというほどとんがっているものが多かったです。これはそうでもありませんが。


二つめの大聖堂ですが(こちらはかなり尖塔でした)、外観よりも中の床が気に入ってしまいました。タイルのようですが、とにかく古くて(ゴシックですから、15世紀くらいのものでしょうか)磨きこまれていて味があります。それでいて模様がかわいい。


Catedral2.1


写真にはとりませんでしたが、見所としてぜひお勧めしたいのは、キルメイナム刑務所です。1900年代の初めまで刑務所として使われていましたが、歴史がすごい。普通の犯罪人(でもそれも、飢えてパンを盗んみ投獄された子供、などの記録もあるのです)も多かったのですが、ここは政治犯が多く入れられていたところで、アイルランド独立運動の闘士たちの残した日記や、手紙、写真などが数多くあります。のちにIRAで戦うことになる人たちの入っていた独房なども残されています。ガイドツアーなのですが、説明が非常に詳しく、イギリスの兵士が独立運動家を銃殺した(立てないほどの重傷者もいたのですが、椅子に縛り付けて銃殺したそうです)中庭でその話を聞くと、鬼気迫るものがあります。イギリス側から見ていると、アイルランドの人たちがイギリスについてどう考えているのか、ということには今まであまり気が回らなかったのですが。


Trinity College

音楽だけではない、文学史も輝かしいアイルランドというのは、本当に芸術気質の人たちがいるところなのだな、と思いました。ワイルドもジョイスも行ったトリニティ・カレッジです。残念ながら、クリスマスのため有名な図書館は閉鎖されていました。


Joyce


ジョイスさん。この格好・・・いいですねえ。それにしても、英語で書く最も優れた作家群を輩出してきたことを誇るこの国ですが(パブめぐりツアーに行ったのですが、テーマが「文学」。並じゃないです。俳優二人が様々な作品の朗読や、劇の一場面を演じてくれて、その後その作家の行きつけのパブに行く、という趣向です。「ジョイスがユリシーズの第八章を書いたパブ」とか。面白かったですよ)、それが「英語」というところがまた複雑なのかしら、と思ったりもしました。実際、滞在中にテレビを除けばアイルランド語(ゲーリック)を耳にしたのは1,2回くらいです。それでも、ゲーリックを話す地方にいけばまだまだ80%くらいの人がこの言葉を話すことができる、ということなのですが。